日々の暮らし · 商から清まで
記事
身近な問いから、歴史の世界へ。

三間五架:明代の民居の尺寸はどこから来たか
洪武二十六年、庶民の廬舎は三間五架を過ぎず。正統十二年に「架多くして間少なき者は禁限に在らず」——横は封じ、縦は緩めた。尺寸はこの幾つかの条文のあいだにある。

一冊の書の三十年:李時珍『本草綱目』はどう編まれ、どう朝廷に届いたか
「毎薬正名を標して綱と為し、釈名を附して目と為す」——書名はそこから来た。三十年、八百余家の書、稿三たび易る。だが三つの材料が出す総薬数は、互いに合わない。

唐・科挙の起点:一人の人間が進士をどう受験するか
州県がまず郷飲酒礼で送り出し、尚書省で帖経・雑文・策を受ける。及第はまだ「出身」にすぎず、授官には吏部の関門がある。唐代科挙の流れと門槛、数字はすべて原文に戻した。

皇后が書き、母が語り、史官が認めた——明代の女性をめぐる三つの語り口
皇后は女性の振る舞いを二十篇に区分し、母は女には数百字で足りると言い、史官は表彰が選び出したものだと認めた。三つのテキストはそれぞれの位置で語るだけで、どれも「明代の女性」そのものではない。

三つの石に刻まれた三人の女:唐代の墓誌が教えてくれること、教えてくれないこと
三百字の墓誌一通、文を売って姉を葬った弟一人。唐の墓誌三通は姓名・年齢・葬地・子の数を与えるが、彼女自身の言葉と、彼女の一日は与えない。

漢代の子が最初に覚えた本——名前と、衣服と、鍋と釜
字書の最初の頁に物語はなく、名前がひと続きに並ぶ。「姓名訖わりぬ、請う物を言え」の一句から、衣服、糧食、鍋や釜へ。郷の子らは競って学び、士族の子弟は鄙俚と蔑んだ。唐の顔師古は、その両端を書き留めている。

一人の医者と一人の文人が、それぞれ書きとめた疫病
張仲景が書き残したのは家の帳面でした。一族二百余口、十年足らずで三分の二が死亡し、その七割が傷寒(古い病名で外感熱病の総称)。曹植が書いたのは場面で、どの家にも死者、どの室にも哭声がありました。両者は196~205年ごろと217年、十余年隔たった別の疫病であり、どちらも統計ではありません。

石ひとつと六斗の米:明代の読書人はどう始めたか
社学、府州県学、廩米、歳考六等——明代の読書人はどの段から始めたのか。清修の『明史』は規定と定員を書き、あわせて規定がどう空回りしたかも書き留めた。

甕を提げて汲みに出るのと、刀を引いて機に趋くのと:漢代女性の、書き残された二つの生活
『女誡』は娘への家書、『列女伝』は表彰名簿。どちらも「漢代女性の実録」ではないが、同じ行為を繰り返し書く。紡績、汲水、酒食、舅姑への奉仕。
