まず、いちばん刺さる一句から。「婦女はただ粗く『柴』『米』『魚』『肉』の数百字を識るを許すのみ、多く字を識るは益無くして損有り」。これを言ったのは母であり、書き留めたのはその息子である。同じ時代に、一人の皇后が二十篇からなる女教の書を著し、一人の史官が正史の序で、女性の表彰は選び出したものだと認めている。三つのテキスト、三つの位置——規範、訓誡、表彰。いずれも女性について語っているが、語っている場所は同じではない。

皇后の目録

永楽二年の冬、仁孝文皇后徐氏——明の成祖(永楽帝)の皇后——が『内訓』二十篇を書き上げ、翌年(永楽三年、1405)の正月に序を寄せた。二十篇の篇名そのものが、一枚の分類表になっている。徳性、修身、慎言、謹行、勤励、警戒、節倹、積善、遷善、崇聖訓、景賢範、事父母、事君、事舅姑、奉祭祀、母儀、睦親、慈幼、逮下、待外戚。一人の心性から、嫁ぎ先の舅姑、そして実家の外戚との関係まで、一枡ずつ区切って並べてある。序にこうある。「古者教必有方、男子八歳而入小学、女子十年而聴姆教」——古えの教えには必ず方(のり)があり、男子は八歳にして小学に入り、女子は十年にして姆(女師)の教えを聴く。彼女は「教」を前提に置いている。女子もまた教えを受けるのだ、ただその受け方が違う——十歳になれば女師が教える、と。

書いた動機も序にある。歴代の史書に載る賢婦貞女は「雖称徳性之懿、亦未有不由於教而成者」——徳性の美しさこそ称えられても、教えによらずして成った者は一人もいない、と彼女は言う。だが小学の書には朱熹が編定したものがあるのに、女教には一冊の完本がなく、世の人は『後漢書』と曹大家(班昭)の『女戒』とを取って訓とするばかりで、「恒に其の略なるを病む」——いつも粗略すぎると不満を言う。だから自分がその欠を補う、と。ここは落とせない。彼女は皇后であり、この本は宮廷と貴族の女性に向けて書かれた(序に「以教宮壼」——内宮の女性を教えるため、とある)。社会に広く流布した女教の教科書ではない。八歳で小学に入り十歳で姆の教えを聴くというのも古制を追想したものであって、明代の学制ではない。四庫提要はこの本の刊行年を考証している。『明史』の本伝は永楽三年(1405)に天下に頒行したと記し、『明朝典彙』は五年十一月(1407)に群臣へ頒給したと記す。提要は刊行が五年の末に始まったとみる。二つの説は並べて置くほかなく、どちらか一方に丸めることはしない。いずれも流通の話であって、この本が規範のテキストであることを変えはしない。

母の口ぶり

『温氏母訓』は、種類の違うテキストである。息子の温璜が、母の陸氏が日ごろ口にすることを書き留めた。温璜は崇禎十六年(1643)の進士で、徽州府の推官となった。明が亡ぶと兵を挙げ、城が陥ちて死節した。この母訓は遺集の後ろに収められ、のちに人が録して単行本とした。母の言葉は具体的である。「婦女はただ粗く『柴』『米』『魚』『肉』の数百字を識るを許すのみ、多く字を識るは益無くして損有り」。寡婦のことを語るとき、彼女は高調なことは言わない。「少寡には必ずしも之に守を勧むる勿れ、必ずしも之に改むるを強うる勿れ。自ずから直捷の相法有り。ただ晏眠蚤起して、逸を悪(にく)み労を好み、忙忙地として一刻も空(あ)きたるを丟(す)てざる者を見よ。これ必ず志を守る人なり」——若くして寡になった女に、守れと勧めるな、再嫁せよと迫るな。見分け方は簡単で、朝寝をせず早起きし、楽を嫌って働きを好み、片時も手を空かせない者なら、それは必ず志を守る人だ、と。彼女の口訣は「寡婦勤、一字経」——寡婦は勤、これ一字の経。守れるかどうかは、起きてから寝るまで働く姿を見れば分かる、というのである。標語ではない。親戚については「但だ願わくは親戚人人豊足ならんことを、寧ろ我はただ貧しくして自ら守らん」——みなが豊かであってほしい、自分は貧しいままで構わない。暮らしについては「人生はただ一個の『巴』の字を消受し得るのみ。日は巴(のぞ)みて晩れ、月は巴みて円ち、農夫は一年を巴み、科挙は三年を巴む」——人の一生は、ただ「巴」の一字で生きていける。日が暮れるのを待ち、月が満ちるのを待ち、農夫は一年を待ち、科挙の受験生は三年を待つ。

面白いのは、読書についての彼女の態度が一貫していないことだ。息子が「古人は治生を急とす。一度書を読めば、生事嗇(すく)なからん」——古人は暮らしを立てることを第一とした、読書ばかりしていては生活の道が細る、と言うと、彼女は答える。「士農工商、各々一業を執り、各人各々その生を治む。読書は便ち生活なり」——士も農も工も商も、それぞれ一つの業を執り、それぞれ自分の生業を治める。そなたにとっては、読書がそのまま生活なのだ、と。息子にとって読書は職業である。ところが女性には、彼女は「数百字を粗く識る」ところで線を引く。識字に反対しているのではない。男女の分業に沿って線を引いているのだ——外は男、内は女。ここで二つの境界を押さえておきたい。一つ、これは息子が記録しまとめた母の言葉であって、母の直筆ではない。二つ、訓誡は実況と同じではない。「ただ数百字を識るを許すのみ」は彼女の主張であって、明代の識字率として使うことはできない。

史官が認めたこと

三つ目のテキストは、いちばん白状している。『明史・列女伝』の序は、まず源流から説き起こす。「劉向傳列女、取行事可為鑒戒、不存一操。范氏宗之、亦採才行高秀者、非獨貴節烈也」——劉向が列女伝を書いたとき、取ったのは鑑戒とすべき行いだけで、一種の操を残したのではない。范曄(はんよう)もそれを宗とし、才と行の高く秀でた者を採ったのであって、節烈だけを貴んだのではない、と。そして一句、転じる。「魏、隋而降、史家乃多取患難顛沛、殺身殉義之事。蓋挽近之情、忽庸行而尚奇激」——魏・隋以降、史家は患難顛沛、身を殺して義に殉ずるの事を多く取るようになった。およそ近ごろの人情は、庸行(ありふれた行い)を忽(ゆるがせ)にして奇激を尚ぶ。だから朝廷が褒めるもの、方志が録するもの、巷間が伝えるものは、みな「至奇至苦」をもって難能とする。そして「文人墨客は往往にして俶儻非常の行を借り、以て其の偉麗激越跌宕として可喜の思を発す」——文人墨客は、並外れた行いを借りて、自分の美しく激しく、起伏に富んだ心地よい思いを吐き出す。書く者が極端な話を好むのは、極端な話がよく効くからだ。

この一節の重さは、正史の編者自身が「これは選んだものだと我々は知っている」と言っている点にある。ただし、それはあくまで清の初めに『明史』を修めたときの序であって、明代人の自述でも統計でもない。「明代の女性はこう暮らしていた」をここから引き出すことはできないし、逆に巻三百一から三百三までの条目数をデータとして数えることもできない(この文章は数えない)。序が語っているのは取捨の原則であって、社会の実況ではない。

三つの位置

三つのテキストを並べて見えてくるのは、「明代の女性観」ではなく、三つの選別の仕組みである。徐皇后は宮廷で規範を書き、行いを二十の枡に切り分けた。動機は「女教に全書なし」であった。母は士人の家庭で息子と嫁を訓え、識字の加減、寡婦の見方、親戚づきあいを語った。史官は清の初めに正史を編み、表彰が選択であることを認めながら、なぜ後世の人が奇節を好むのかを説明した。三つとも宮廷か士人の家庭から出ている。普通の農婦や婢女、宮人の材料はここにはない。だから三つを寄せ集めて「明代の女性」という一つの像にすることはできない。

三つの言葉

最後に、三つの言葉を並べて置く。皇后は言う、女子は十歳になれば姆の教えを聴くものだと——「教」はあるべきものだ。母は言う、女は数百字を識れば十分だと——「教」を性別の線で断ち切っている。史官は言う、後世は「庸行を忽(ゆるがせ)にして奇激を尚ぶ」と——書き残された者たちは選ばれたのだ、と。三つの言葉は互いを説明せず、互いを打ち消しもしない。読み取れるのは、それぞれがどこに立って語っているか、それだけである。

参考資料・関連文献

  1. 《内训》(明·仁孝文皇后徐氏撰;四库全书本,维基文库) — Twenty chapters catalogued by the Qing editors from 'virtuous nature' to 'treatment of the empress's kin'; the preface's 'in antiquity teaching had its order: boys entered the elementary school at eight, girls received the governess's teaching at ten'; written in the winter of 1402 and prefaced in the first month of 1403, because there was no complete book of women's education and the old ones were 'always found too brief'. The Siku editors note that the interlinear commentary under each chapter was probably added by scholar-officials, not by the empress, and they debate whether the printing and distribution to officials began in 1405.
  2. 《温氏母训》(明·温璜录其母陆氏之训;维基文库) — A son's record of his mother's talk: 'Women are allowed only a rough knowledge of a few hundred characters — firewood, rice, fish, meat; more literacy does no good and does harm'; on young widows, 'do not urge her to keep her vow, do not force her to remarry', and her rule of thumb 'a diligent widow, one character'; on relatives, 'let them all be well off and let me keep my own poverty'; and to her son, 'scholars, farmers, craftsmen and merchants each follow one trade; for you, study is your living'. The son Wen Huang was a Chongzhen jinshi who died resisting the Qing; the text survives as an appendix to his collected works.
  3. 《明史》卷三百一·列女传一(清初修;维基文库) — The compilers' own preface on selection: Liu Xiang's biographies of women took only deeds useful as warnings and 'did not preserve one single kind of constancy'; Fan Ye followed him and 'did not value chastity and martyrdom alone'; from Wei and Sui onward historians preferred hardship, flight and self-sacrifice, because 'recent times neglect ordinary conduct and prize the extraordinary and vehement', and because writers were drawn to 'unusual and striking conduct' as matter for fine prose. This is a Qing compilation; the preface describes a selection principle, not a statistic.