2026年9月18日、陝西省考古研究院は咸陽・上召窯秦陵の発掘成果を発表した。作業は2018年に始まり、西安咸陽国際空港第三期拡張工事に伴い、工事区域内の文保単位(文化財保護単位)「恭陵」の専項考古踏査を行った。2022年には陵園北部を重点的に発掘し、全域を補勘した。遺構はもとの上召窯村に位置することから「上召窯秦陵」と命名された。旧名は長く使われてきたもので、新名は村名による。本稿の前半はすべてこの報道の説明であり、発掘報告ではない。

空港そばの陵園

報道によれば、陵園の平面はほぼ方形で、全体は「回」字形に配置される。外兆溝、内兆溝、内園壁、主陵、陪葬墓、祔葬墓、祭祀坑がそろっており、報道は遺構の体系が完全で、形制の要素が欠けないとする。兆溝は陵園の境界を画す溝で、内外二道がある。核心は内陵園中部、南北中軸線上の「亞」字形の大墓で、上に覆斗形封土(截頭ピラミッド形の墳丘)があり、墓室の平面は方形、四辺の中央にそれぞれ一本の斜路墓道がある。報道はこれを戦国晩期の秦の高等級帝王陵の典型的な形制とする。

今回の発掘で出土した遺物は累計258件(組)——「件(組)」は報道自身の言い方で、今回の作業の累計数である。材質は陶・銅・鉄・鉛・玉。陶器の器形には鼎・盒・壺・罐・盆・釜があり、一部の器物には「咸広里高」「咸重成未」「咸宜都次」などの陶文がある。報道はこれらを戦国秦代の基層建制と手工業生産を研究する文字資料とする。銅器は主に祔葬墓から出て、鼎・壺など礼器が中心であり、うち一件の銅鼎には「宋氏」の銘文が刻まれ、報道は墓主の身分考証と家族譜系の研究に手がかりを与えるとする——ただしこの鼎は祔葬墓から出たものであり、報道はその手がかりがどう主墓に結びつくのかを説明していない。

なぜ華陽太后と推定するのか

報道はこれを推測として述べる。陵園の形制と全体配置は近くの司家荘秦陵と高度に一致し、建造年代もほぼ同期で、二つの墓の墓主は「高い確率で(大概率)」密接な関係がある。さらに戦国秦の陵寝埋葬制度、伝世文献の記載、今回の考古実証資料を合わせ、考古隊は墓主を戦国晩期に大きな影響力を持った秦の華陽太后と「初歩的に推断(初步推断)」する。報道の用語は二段階に分かれる。二墓の関係は「大概率」、墓主身分は「初歩的推断」である。

報道が与えないのは直接証拠である。墓主を記す銘文は一件もなく、「宋氏」銅鼎は祔葬墓から出て主墓室にはない。墓道の長さも、種類別の副葬品の件数も、陵園の大きさも与えられていない。どの「伝世文献」のどの一句を根拠にしたかも言わない。これは考古所のサイト(央広網からの転載)のニュース記事であり、発掘報告ではない。

『史記』のなかの華陽夫人

『史記・呂不韋列伝』が与えるのは人である。秦昭王のとき、太子安国君には非常に寵愛する姫があり、正夫人として立てて華陽夫人と号した。「華陽夫人無子」——華陽夫人には子がなかった。安国君には子が二十余人あり、中男の子楚は母の夏姫が寵を失っており、子楚は趙に人質として出ていた。呂不韋は邯鄲で彼に会い、「此奇貨可居」——これは珍しい品で、買い占める値がある、と言い、さらに言った。「能立適嗣者獨華陽夫人耳」——適嗣を立てられるのは華陽夫人だけだ、と。彼は千金を携えて西へ行き、華陽夫人の姉に会って説得させた。色をもって人に仕える者は、色が衰えれば愛も弛む。夫人に子がないなら、早く諸子のうち賢孝な者と結び、適嗣とするのがよい、と。華陽夫人はもっともだと思い、安国君に泣いて子楚を適嗣とするよう請い、安国君と夫人は「刻玉符,約以為適嗣」——玉符を刻んで適嗣とする約をした。

その後。昭王五十六年、安国君が王となり、華陽夫人は王后、子楚は太子となった。安国君は立って一年で薨じ、謚は孝文王。子楚が立って荘襄王となり、華陽后は華陽太后となった。この列伝が彼女の話を結ぶのはただ一句——「孝文王后曰華陽太后,與孝文王會葬壽陵」——孝文王の后は華陽太后と呼ばれ、孝文王とともに寿陵に会葬された、と。

一つの名、一つの墓

二つの頁がぶつかるのはここであり、完全には合わないのもここである。『史記』は華陽太后を寿陵に置き、孝文王と会葬させる。2026年の報道はこの大墓を上召窯に置き、それが旧来は文保単位「恭陵」に属したとし、墓主を華陽太后と推定する。報道は「恭陵」を文保単位の名だと言い、その名の由来は言わない。報道は「恭陵」と「寿陵」がどういう関係かを言わず、『史記』のあの一句も引かない。

両方をここに照録し、どちらも他方に合わせて直さない。推定が成り立てば、地上のこの墓と「会葬寿陵」の一句がどう対応するかは、報道の残した問題である。推定が成り立たなければ、文献のその名は別の墓のものである。この二頁はどちらも裁かない——彼女が孝文王と同じ陵園にいたのか、別の場所なのかは、報道は言わない。読者は両方を同時に持つほかない。一方は彼女を寿陵に置き、一方は上召窯の大墓を彼女のものかもしれないと言う。報道自身が「初歩的推断」と言って、そこで止まる。

報道が与えないもの

だから本稿の考古学の半分は報道のものであり、発掘報告のものではない。陵園の形、「亞」字形、四本の墓道、258件(組)、それらの銘文は、すべて「報道によれば」であり、墓主は「華陽太后かもしれない」。報道が与えないもの——墓道の長さ、種類別の器物件数、陵園の寸法、戦国晩期のなかの具体的な年代——は、ここでも補わない。報道は平断面図を載せず、器物目録もなく、「戦国晩期」以外の断代根拠もない。本稿は秦陵制度の通論も書かず、他の秦墓にも触れない。一篇の報道、一つの墓、一つの名だけを書く。

二頁を並べて読むと、一方に形があり、一方に名がある。一方は2026年のニュース記事——方形の陵園、四本の墓道、258件(組)の文物。一方は二千年前の列伝——子のない正夫人と、趙に人質となった息子。そのあいだの一歩——地下の墓と紙の上の名を結ぶこと——を、報道は「初歩的推断」と呼び、定論とは呼ばない。

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参考資料・関連文献

  1. 陕西省考古研究院〈陕西咸阳发现战国晚期秦王级墓葬 据推测墓主或为华阳太后〉(央广网,记者苏睿楠,2026-09-24;中国社会科学院考古研究所网站转载) — A news report, not the excavation report: the enclosure near Xi'an Xianyang International Airport, excavated from 2018 and named for the village; a nearly square plan with outer and inner boundary ditches, inner wall, main tomb, satellite and attached burials and sacrificial pits; a '亞'-shaped tomb under a truncated-pyramid mound with four ramps, called typical of a late Warring States Qin royal tomb; 258 objects or groups, with potters' inscriptions and a 宋氏 bronze from an attached burial; the occupant 'preliminarily inferred' to be Huayang Taihou on grounds of the tomb system, transmitted texts and the excavated evidence.
  2. 司马迁《史记》卷八十五·吕不韦列传(西汉;维基文库本,未与点校本复核) — The Huayang Furen line only: Lord Anguo's childless principal wife; Zichu the hostage son; Lü Buwei's argument that 'the only one who can establish the legitimate heir is Huayang Furen'; the jade tally; Huayang becoming queen and then Huayang Taihou; and the closing sentence that she was 'buried with King Xiaowen at Shouling'.