紀元前61年、七十を超えていた趙充国は金城にいた。先零羌と戦うための兵を率いている。彼が上奏した屯田の奏文は、土地からではなく、勘定から始まる。「臣が率いる吏士・馬・牛の食は、月に糧穀十九万九千六百三十斛、塩千六百九十三斛、茭藁二十五万二百八十六石」——『通典』は最後の項に「石は百二十斤」と注を付ける。議論の全体はこの月の勘定を軸に回っている。どれだけの土地が耕せるかではなく、耕さない兵にどれだけの穀をよそから運ばねばならないか、である。

ひと月、十九万九千六百三十斛

この勘定は全軍の一か月分だ。同じ奏文には、朝廷が徴発した諸軍は「合わせて六万人」とあり、六万人に馬牛を加えれば、ひと月に二十万斛近い糧穀が消える。数字のすぐ後にこう書く。「長く解けねば、繇役は息まない」。戦が長引けば、徭役も止まらない。彼がつけているのは、金と穀が「戦う」のではなく「待つ」と「運ぶ」に消えていくという勘定だ。

発端は先零羌の反乱だった。誰が兵を率いるべきかを問われ、彼は「老臣に過ぎる者はおりません」と答えた。金城に着くと、小さな集団を追わずに壁を堅くして待った。朝廷は待ちきれず、季節が変わる前に進軍するよう璽書が届く。その手紙は難儀をこう直截に述べている。「今、張掖以東、粟一石は百余銭、芻槁一束は数十銭。転輸並び起こり、百姓煩擾す」——張掖以東では粟一石が百余銭、草料一束が数十銭。転輸が始まれば民が苦しむ。戦を促す手紙が、まず輸送の費用から書き出しているのだ。趙充国は「撃つは便ならず」と返し、続いて屯田の奏を上った。騎兵をやめ、一万人を残して土地を耕させ、羌が自ら崩れるのを待つ、と。

二千頃と一万二百八十一人

土地はある。「臨羌から東の浩亹までを計り、羌の旧田と公田、民がまだ開いていない田は、合わせて二千頃以上と見込まれ、沿線の郵亭は多く壊れている」。この数は「可」、つまり見積もりで、すでに耕された田ではない。準備もすでに始めている。「先に兵を山に入れ、材木を大小六万余本伐り、みな水辺に積んだ」——後で郵亭や橋を直すための木材である。

残す兵はこう集めた。「騎兵をやめ、弛刑と応募の者、淮陽・汝南の歩兵、吏士の私従の者を留め、合わせて一万二百八十一人、穀は月に二万七千三百六十三斛、塩三百八斛、要害の地に分屯させる」。続く一文が要点だ。「今、大司農が転じて送り届けた穀は、一万人の一年の食に足る」——すでに届いた穀を食いながら新穀を待てば、転輸は止められる。

一人に二十畝を賦す

一人がどれだけ耕すか、原文は一文だけだ。「田事出づれば、人に二十畝を賦す」——春に田仕事が始まれば、一人に二十畝を分け与える。『通典』の注は「田事出づとは、春になれば人が営田に出ることを謂う。賦とは班与するを謂う」と補う。賦は分け与えるの意。二十畝は割り当てであって、実際に耕した面積ではなく、まして収量でもない。二つのページはどちらも、この二千頃のうちどれだけ開かれたか、一畝にどれだけ取れたか、総収穫がいくらだったかを語らない。

屯田は耕すだけではなかった。同じ奏には仕事が並ぶ。「氷が解ければ木を漕ぎ下ろし、郷亭を繕い、溝渠を浚い、湟陿以西の道橋七十所を治めて、鮮水のあたりまで通じさせる」。四月に草が伸びれば、郡と属国から胡騎を「伉健なるもの各々千、倅馬は什二、草に就かせ、田者の遊兵となす」——それぞれ千の精騎、十匹に二匹の副馬を連れて草地に出て、耕す者の遊兵となる。十二の便宜のうち、彼は「暇なときに伐った材を下ろし、郵亭を繕い、金城に入れる」も別に一項として数えた。

運び米と比べた勘定

最も硬い一行は便宜の第四条。「軍馬一月の食は、度支して田士の一年に当たる。騎兵を罷めれば大費を省く。四なり」。彼が計算しているのは収穫ではなく、置き換えだ。第一条は「田に因りて穀を致し、威徳並び行わる」、結びは「屯田は内に亡費の利あり、外に守禦の備えあり」——中では運送費が浮き、外には守りが残る。動機も率直に書く。「今、久しく転輸すれば煩費し、我が不虞の用を傾けて一隅を澹さんとする。臣愚、以爲え不便なり」——長引けば運送に金がかかり、万一に備えた蓄えをこの一角に注ぎ込むことになる。

出兵しない場合にも勘定がある。もう一つの案は辛武賢のもので、七月に出撃し、一人に三十日分の糧を持たせる。趙充国はその負担を算定する。「一馬に自ら三十日分の食を負わせれば、米二斛四斗、麦八斛、さらに衣装と兵器があり、追いかけるのは難しい」。道もまた「回遠千里」である。彼はさらに古い勘定を思い出す。金城・湟中では「穀一斛八銭」で、彼は耿中丞に二百万斛を買い入れるよう勧め、「そうすれば羌は動かない」と言った。ところが耿中丞は百万斛を請うて、得たのは四十万斛だけだった。近くで買う米は足りず、残る道は遠くから運ぶか、兵自身に耕させるかだった。

十分の三、十分の五、十分の八

朝議は最初から同意していたわけではない。班固ははっきり書く。「初め、趙充国の計を是とする者は十分の三、中ごろは十分の五、最後は十分の八」。丞相の魏相は言った。「後将軍はしばしば軍冊を画き、その言は常に是なり。臣はその計必ず用うべしと任ず」。皇帝は「今、将軍の言を聴く。将軍の計は善し。留めて屯田すべき者と罷むべき者の人馬の数を上れ」と答えた。だが結果は「両ながら其の計に従う」——破羌・強弩の二将軍はなお出撃し、趙充国ひとりが残って屯田した。

翌年五月、彼は戦果を報じる。「羌はもと五万人の軍、斬首は七千六百級、降者は三万一千二百人、河湟に溺れ飢えて死んだ者は五六千人、遺脱と煎鞏・黄羝と共に逃亡した者を定めて計れば、四千人に過ぎない」。そして「屯兵を罷めんことを請う」、奏は可とされ、軍を整えて還った。この勘定は帰属をはっきり見るべきだ。屯田が単独で勝ったのではない。三路の兵がみな出動した。屯田が担ったのは「もう遠くから運ばない」ことであり、戦果は三路を合わせて報じられたものだ。二つのページには畝当たりの収量も総収穫もなく、この田の租税が誰に帰したかも、屯田兵の家族がどこにいたかも書かれていない。もう一つの境界線。『通典』の屯田の条は漢の次に魏・晋・隋・唐と朝代順に並ぶが、それは編者の配列であって「屯田が漢から魏へ連続した」という沿革の証拠ではない。許の屯田や鄧艾の淮南屯田もこの篇には入らない。

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参考資料・関連文献

  1. 《汉书》卷六十九·赵充国辛庆忌传(东汉班固;维基文库本,未与点校本复核) — The farm memorial in full, which is the spine of the article. The monthly bill: 'the officers, men, horses and cattle under my command use each month 199,630 hu of grain, 1,693 hu of salt, and 250,286 shi of fodder' (臣所將吏士馬牛食,月用糧穀十九萬九千六百三十斛,鹽千六百九十三斛,茭藁二十五萬二百八十六石), followed by 'if the affair is long unresolved, the corvée will not stop' (難久不解,繇役不息); the same chapter says the levies came to 'sixty thousand men in all' (合六萬人矣). The imperial letter pressing an attack, which states the prices and the burden: 'east of Zhangye grain is more than a hundred cash a shi and a bundle of fodder several tens; transport has been raised on every side and the common people are harassed' (今張掖以東粟石百餘,芻槁束數十。轉輸並起,百姓煩擾). The land: 'reckoning from Linqiang east to Haomen … two thousand qing or more; and the post stations are mostly ruined' (計度臨羌東至浩亹……可二千頃以上,其間郵亭多壞敗者). Timber: 'more than sixty thousand pieces, all stacked by the water' (伐材木大小六萬餘枚,皆在水次). The force kept: '10,281 in all, using 27,363 hu of grain a month and 308 hu of salt' (合凡萬二百八十一人,用穀月二萬七千三百六十三斛,鹽三百八斛), with 'the grain already brought by the Grand Minister of Agriculture enough to support ten thousand men for a year' (足支萬人一歲食). The works: 'when the ice breaks, float the timber down; repair the post stations, clear the ditches, and put in order the roads and bridges west of the Huang gorge, seventy of them' (冰解漕下,繕鄉亭,浚溝渠,治湟陿以西道橋七十所), and horsemen 'with spare mounts at two in ten, to graze and serve as patrols for the farmers' (倅馬什二,就草,為田者遊兵). The twelve benefits: the first (因田致穀,威德並行), the fourth (軍馬一月之食,度支田士一歲,罷騎兵以省大費), and the timber-and-post-station item (以閒暇時下所伐材,繕治郵亭,充入金城); then 'garrison farming has the profit of no expense within and the preparation of defence without' (屯田內有亡費之利,外有守禦之備) and 'transport is long and troublesome and expensive, draining what we keep for the unforeseen to water one corner' (今久轉運煩費,傾我不虞之用以澹一隅). Xin Wuxian's alternative and its load: 'one horse carrying its own thirty days' food — two hu four dou of rice, eight hu of wheat' (以一馬自佗負三十日食,為米二斛四斗,麥八斛), over a road 'a thousand li roundabout' (回遠千里); Zhao's retrospect on local prices, 'grain at Jincheng and Huangzhong eight cash a hu' (金城、湟中穀斛八錢), against which he had urged two million hu and seen four hundred thousand bought. The shift in opinion: 'at first three in ten agreed, midway five, at the end eight' (初是充國計者什三,中什五,最後什八), Wei Xiang's endorsement, the emperor's 'now I follow the general', and then 'he followed both plans' (兩從其計). The next year's report: five myriads of Qiang, 7,600 beheaded, 31,200 surrendered, five or six thousand drowned or starved, 'no more than four thousand' escaped (定計遺脫……不過四千人), and the request to disband the farm (請罷屯兵).
  2. 《通典》卷二·食货二·屯田(唐杜佑;维基文库本,未与点校本复核) — The Tang compilation's garrison-farm section, which carries the same memorial abridged with notes. It supplies the note on units — 'a shi is 120 jin' — and, crucially, the gloss on the allotment sentence: 'the field work begins means that in spring the men go out to work the fields; fu means to distribute to them' (田事出,謂至春人出營田也。賦謂班與之), which is why twenty mu must be read as an allotment and not as area actually ploughed or as a yield. Its Han section also has an earlier entry, Emperor Zhao's first yuan year (85 BC), when 'shooting soldiers were sent to Shuofang and former officials were appointed to lead garrison farming in Zhangye commandery' (發習戰射士詣朔方,調故吏將屯田張掖郡), a reminder that Zhao's plan was not the first of its kind; but the page then runs on by dynasty through Wei, Jin, Sui and Tang, and that arrangement is the compiler's, not evidence that the institution ran unbroken from Han to Wei. The Wei entries on this page (Xu Xia's fields at Xuchang, Deng Ai on the Huai) are excluded here and belong to the site's Wei article.