長安では用が急だった。列侯や封君は軍に従って出征しなければならず、馬も装備も出発前に揃えねばならない。そこで金を借りに行く。だが貸し手は貸さなかった。金がないからではない。この戦の勝敗が見えないからだ。彼らの封邑は関東にあり、呉楚の反乱が勝つか負けるか決まっていない。いま貸した金は、戻ってこないかもしれない。

誰も貸さなかったとき

『史記』貨殖列伝は、この一件を二文で片づけている。「呉楚七国兵起時、長安中列侯封君行従軍旅、齎貸子銭、子銭家以為侯邑国在関東、関東成敗未決、莫肯与」——呉楚七国の兵が起きたとき、長安の列侯封君は軍旅に従って行き、子銭を借りた。子銭家は、侯邑国が関東にあり、関東の成敗いまだ決せずと考え、誰も応じなかった。貸し手には名さえある。子銭家(zi qian jia)——「利銭の家」である。彼らは危険を値踏みし、この商いを断った。この章には、貸し手の店も、証書も、利率も出てこない。記されているのは断りであり、その断り自体が情報である。長安の貸付とは、人の信用より先に戦を秤にかける商売だった。

「唯無塩氏出捐千金貸、其息什之」——ただ無塩氏だけが千金を出して貸し、その利息は十倍だった。三ヶ月後、「呉楚平らぐ」。そして「一歳の中、則ち無塩氏の息什倍、此れを用いて富は関中に埒し」——一年のうちに利息は十倍になり、無塩氏はこれによって関中の豪家と肩を並べる富を得た。勝ちを読んだ賭けである。他人が恐れたのは勝敗であり、この者が買ったのも勝敗だった。

一件の事例であって、利率表ではない

この一節は文脈のなかで読まねばならない。貨殖列伝が論じるのは「富」であり、各地の富む者を並べるなかで、無塩氏はその一例にすぎない。司馬遷自身、篇のなかで富を等級に分ける。「本富を上と為し、末富之に次ぎ、奸富を最下と為す」——貸付は末富の側に属する。彼はまた、この者たちは「爵邑奉禄ありて法を弄し奸を犯して富むに非ず」、すなわち時と俯仰することによって富んだのだと言う。だからこれは論のなかの実例であって、信用統計ではない。「記録によれば」と断るのは、この章に由来し、著者の判断をまとっているからだ。

同篇はもう一句挙げる。「子貸金銭千貫」。通邑大都の商いの一覧に、酒の醸造、穀物の売買、牛羊の屠殺と並べて置かれ、結びに、そういう者は「千乗の家に比す」と言う。貸付が元手を要する商売であり、千貫がその体面だということである。だが利率表ではない。貨殖列伝の全体で利息の数字は無塩氏の一例しかなく、原文は「其息什之」と書き、後段では「息什倍」と書く。それが元本に対する十倍の利息なのか、元利合計の十倍なのかは書かず、期限も担保も保証も書かない。

王莽の賒貸

もう一つの書では、貸付が官の仕事になる。『漢書』食貨志は王莽の新朝の制度を記し、冒頭から古典を引く。「夫れ周礼に賒貸あり、楽語に五均あり」——彼は貸付を古制だと言う。そこで長安と、洛陽・邯鄲・臨淄・宛・成都に五均官を置き、各所に「交易丞五人、銭府丞一人」を置いた。六つの官営のうちの一つが「五均賒貸」である。

条文は細かい。「民、祭祀喪紀を行わんとして用うる無き者は、銭府は工商の貢の入る所を以て但だ之に賒し、祭祀は旬日を過ぎず、喪紀は三月を過ぐる毋し」。祭祀や葬儀をしたいが金がない者には、銭府が工商の貢から貸し与える。祭祀は十日以内、葬儀は三ヶ月を超えない。「民、或いは乏絶し、貸して以て産業を治めんとする者は、均しく之に授け、其の費を除き、得る所を計りて息を受く、歳什一を過ぐる毋し」。食べるにも窮した者が借りて産業を営もうとするときは、官が一律に貸し、費用を差し引いて、得た利から利息を取る。年十分の一を超えない。

「賒」と「貸」はここでは二つの語である。賒はまず品を渡し、期限を切って返させること。貸は金を貸して利息を取り、しかも上限がある。この仕組みは新朝のもので、前漢の常態ではない。七国の乱の私貸は景帝のとき、王莽の賒貸令は前漢の後、その間に百余年がある。

二つの金は同じものではない

並べると二種の借り方が見える。一つは私的で、戦時の、一回限りのもの。条件は当事者が決め、危険は貸し手が負う。だから子銭家は勘定して貸さず、無塩氏は勘定して貸し、利息は十倍になった。もう一つは官のもので、常設である。用途は祭祀・葬儀と産業経営の二つに分かれ、条文は法令に書かれ、利息は歳什一で頭打ちになる。一方は賭け、他方は制度である。

王莽の仕組みには実施の記録もあり、その記録は悪い。志によれば、五均六斡を監督させるために派遣した「命士」は、郡ごとに数人、「皆な富賈を用う」。洛陽、臨淄などの者たちで、「伝に乗りて利を求め、天下に交錯し」、その結果「因りて郡県と通奸し、多く空簿を張り、府臧実ならず、百姓は俞い病む」。志は、富商を登用したこと自体を失敗の一部として記しており、偶発事として扱ってはいない。法令の「歳什一を過ぐる毋し」と帳簿の「多く空簿を張る」は、別の二つの事柄である。

材料にないもの

利率表はない。借用証書もない。貸付総額もない。返済不能のときどうするかもない。無塩氏の一件で、金をどう返したか、誰が保証したか、仲介者がいたかは、列伝は一言も書かない。王莽の「歳什一を過ぐる毋し」が上限なのか実収なのかも、志は言わない。五均官が一年にどれだけ貸したかも数字がない。そして、ふだんの年の貸付の値段については何もない。一方の頁は非常時を語り、他方は詔令を語っている。二つの頁が与えるのは物語と条文であり、帳簿ではない。

今日の利息に換算することもできない。漢代の金がどれほどの価値で、穀物がいくらで、返済期限がどれほどだったか、二つの頁は何も語らない。十倍を年率に直せば精密に見えるが、それは今日の物差しで漢代の布を測るようなものだ。「高利貸」は後の言葉で、どちらの頁にもない。書けるのは二つの金だけである。一つは戦前に誰もが避け、一人が引き受けた。一つは詔書に詳しく書かれ、実施の段で帳簿が偽られた。一方は物語、他方は制度史である。

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参考資料・関連文献

  1. 司马迁《史记》卷一百二十九·货殖列传(西汉;维基文库本,未与点校本复核) — A chapter on how fortunes were made, written with the author's own judgments — it ranks 'wealth from the root first, from the branch next, from crookedness lowest' (本富为上,末富次之,奸富最下) and says of the men it lists that they were rich without fiefs, salaries or crime. Its only money-lending case is one sentence long: when the seven states of Wu and Chu rose, the marquises and enfeoffed lords in Chang'an borrowed to equip themselves for the campaign, and the money-lenders (子錢家) refused because their fiefs lay east of the pass and the outcome was undecided; 'only the Wuyan family put out a thousand jin to lend, at tenfold interest' (唯无盐氏出捐千金贷,其息什之); three months later Wu and Chu were pacified, and within a year the interest was tenfold, making them as rich as the houses of Guanzhong. The chapter also lists 'money lent at interest, a thousand strings' among businesses of the great cities, and says such a man is comparable to the house of a thousand chariots. It gives no rate, no term, no contract and no other loan.
  2. 班固《汉书》卷二十四·食货志下(东汉;维基文库本,未与点校本复核) — An Eastern Han treatise on the Xin dynasty's economy. Wang Mang, justifying himself from the Rites of Zhou, opens credit and the five equalizations: offices are set up in Chang'an and five other cities, each with five trade officers and one money-office officer; the six state monopolies include 'the five equalizations and credit' (五均賒貸). The credit rules: those who wish to sacrifice or bury and have nothing may take goods on credit from the money office, with ten days for sacrifices and no more than three months for funerals; those who are destitute and wish to borrow to work at a trade are lent to after their expenses are deducted, interest on the profit being no more than a tenth of the year (毋過歲什一). The treatise also records how it went: the supervisors appointed were rich merchants who 'rode the post roads after profit', colluded with the commandery offices, 'kept many empty ledgers, so the treasuries were not accurate, and the people suffered the more'.