一里四方の土地を九つに割る。周囲の八つは一家に一つずつ、それぞれ百畝。中央の一つが公田で、八家が一緒に耕す。公田の仕事を先に終えてからでなければ、自分の田の仕事に手を出してはならない。これが孟子(Mengzi)が滕の国に語った井田(せいでん、jingtian)である——語られたのは対話のなかで、田圃で測られたものではない。
仁政は経界から始まる
滕の文公は畢戦(Bi Zhan)を遣わして井地を問わせた。孟子は分田からではなく、まず経界(けいかい、jingjie)から説き起こす。「仁政はかならず経界から始まる。経界が正しくなければ、井地は均せず、穀禄も平らかでない。だから暴君や汚吏はかならず経界をなおざりにする。経界が正しくなれば、田を分かち禄を定めるのは座ったままでもできる」——まず測り、線を引き、それから誰に何を、という順序を、彼は最初の一言で示している。
ついで三代の税法。「夏后氏は五十にして貢し、殷人は七十にして助し、周人は百畝にして徹す。その実はみな什一なり。徹とは徹(とお)すこと、助とは藉(か)ることなり」——三代で田額も税の名も違うが、実はどれも十分の一。「徹」は通すこと、「助」は借りること、すなわち民の力を借りて公田を耕すことである。龍子(Longzi)の言葉を引く。地を治めて助にまさるものはなく、貢に劣るものはない。貢は数年の平均を取って常とするから、豊作で穀物が転がっていても取るのは少なく、凶作で肥やしが足りなくても満額を取る、と。さらに詩を引く。「我が公田に雨れ、遂に我が私に及べ」——助があってこそ公田があるのだから、「周もまた助を用いた」という。
方里而井——孟子の案
案そのものは短い。野では九分の一を助で取り、国中では十分の一を自ら申告させ、卿以下には必ず圭田(けいでん)五十畝、余夫には二十五畝。死や移住があっても郷を出ない。同じ井を耕す家は村を共にし、出入りは友として、番は助け合い、病めば支え合う。そして「方里にして井と為す。井は九百畝、その中を公田と為す。八家はみな私に百畝、同じく公田を養う。公事畢りて、然る後に敢えて私事を治む。野人を別つ所以なり」——この田制は「野人」のためのものであり、君子と野人ははっきり分けられている。
いちばん大事な一句は末尾にある。「此れ其の大略なり。若し夫れ之を潤沢せんことは、則ち君と子とに在り」——これはただの概略であり、どう磨き上げるかは国君とあなたに任せる、と。語っているのは孟子本人、相手は滕の臣下、内容はまだ改められる案である。だからこれは紙の上の井田であり、滕が実際に執行したかどうかは、この一節は言わないし、ほかのどこにも書かれていない。
『周礼』のもう一つの設計
『周礼』地官司徒の田制は、まったく別の算術で組まれている。小司徒の職文はこうである。「乃ち土地を経し、井牧して其の田野をす。九夫を井と為し、四井を邑と為し、四邑を丘と為し、四丘を甸と為し、四甸を県と為し、四県を都と為す。以て地事に任じ、而して貢賦を令す」——九夫で一井、八家ではない。井の上は邑・丘・甸・県・都と、すべて四進法で進む。ここに公田はなく、「同じく公田を養う」もない。井は地事を割り当て貢賦を課すための、編成の鎖の第一環にすぎない。
遂人(すいじん、Suiren)の条はもっと具体的である。まず野を上・中・下の三等に分ける。「上地は夫に一廛、田は百畝、萊は五十畝、余夫も亦た之の如し。中地は一廛、田は百畝、萊は百畝。下地は一廛、田は百畝、萊は二百畝」——各家に宅地一つと田百畝、地味に応じてさらに五十、百、二百畝の「萊」(休耕地)を配る。ついで溝洫。「夫の間に遂あり、遂の上に径あり。十夫に溝あり、溝の上に畛あり。百夫に洫あり、洫の上に涂あり。千夫に澮あり、澮の上に道あり。万夫に川あり、川の上に路あり、以て畿に達す」——一夫の間の遂から万夫の川まで、すべて十進法で、水路のほとりには道が付く。集落は五家を隣とし、五隣を里とし、五進法で進み、途中に四里を酇とする段が挟まる。
かくして二組の数字は噛み合わない。孟子は八家で一井を共にし、中央に百畝の公田を置く。『周礼』は九夫で一井とし、その上は四進法の都邑になる。孟子は溝洫を語らない。『周礼』の溝洫は十夫・百夫・千夫・万夫の十進法で、九夫一井の升目には収まらない。これは誰かが書き写し間違えたのではなく、性格の異なる二つの文書である。一つは国君に語った案、一つは官制設計の職文。無理に一枚の図にしようとすれば、最初の一線からして引けない。
実行されたのか
二つのページのどちらも、実行の証拠を出さない。孟子は滕がそれに従ったとは言わず、「此れ其の大略なり」の一句を残すだけであり、『周礼』は設計であって、作者も成立年代も学界で論争があり、特定の土地の測量記録でもない。井田が実際に行われたのか、行われたとしてどの程度かは、学界で争いが大きく、本稿は裁かない。確かなのは二つだけである。孟子がこのような案を出したこと、『周礼』がこのような田制を設計したこと。畦がどこにあったのかは、どちらのページも教えない。
「古代の平均地権」と書くこともできない。孟子の案では、君子と野人ははっきり分けられ、末尾の一句はまさに「野人を別つ所以なり」である。卿以下には圭田があり、余夫は二十五畝だけで、同じ井の八家のほかにもさまざまな身分の者がいる。地は身分と家口によって配られるのであって、均等に配られるのではない。ここは転述のときに最も落ちやすい。「八家各百畝」はどれも同じに聞こえるが、案そのものが「野人を別つ」と書いている。
材料にないもの
畝の換算はなく、平方メートルに直すべきでもない。収量、口糧、税率の実数もない。二書に合う田界図も一枚もなく、執行の記録も一条もない。「井」が実在の地物(水井、井の字の田界)なのか、編成の単位なのかさえ、二つのページは明らかにしない。孟子はただ「方里にして井と為す」と言い、一里四方を一井と呼ぶだけである。だから「紙の上の井田」という題に、この二ページが与えるのはまさに紙である——一つの案、一組の官制、そして畦はない。
関連記事:「殷武(いんぶ)」:祭歌のなかの南征 · 千金と十倍——戦時の貸付と王莽の賒貸令 · 行老と牙嫂:宋代の町はどう人を雇ったか
参考資料・関連文献
- 《孟子·滕文公上》(战国;维基文库本,未与点校本复核) — The only passage where the 'well-field' is described. Duke Wen of Teng sends Bi Zhan to ask about well-fields, and Mencius answers: benevolent government must begin with the field boundaries (夫仁政必自經界始), because if the boundaries are wrong the fields are uneven and the grain stipends unequal. He then states the scheme: in the countryside one in nine, by zhu (assisting with labour on the public field); in the capital region one in ten, self-assessed; gui fields of fifty mu for the ministers and below; twenty-five mu for a surplus son. 'A square li is one well: a well is nine hundred mu, the middle is the public field, eight households each hold a hundred mu privately and together till the public field; only when the public work is finished dare they attend to private work — this is how the countryman is distinguished' (方里而井,井九百畝,其中為公田。八家皆私百畝,同養公田). He closes: 'this is the rough outline; the polishing of it is up to the ruler and to you' (此其大略也). The page gives no place, no date, no survey and no evidence that Teng adopted it.
- 《周礼·地官司徒》(作者与成书年代有争议;维基文库本,未与点校本复核) — A design for offices, not a record. The junior minister (小司徒) 'lays out the land and assigns the fields by well and pasture: nine households to a well, four wells to a settlement (邑), four settlements to a mound (丘), four to a hunt-land (甸), four to a district (縣), four to a capital district (都)' (九夫為井) — a four-based ladder that starts from nine, with no public field mentioned. The 遂人 divides land into first, middle and third grade, each household getting a house plot, a hundred mu of field and fifty, a hundred or two hundred mu of fallow (萊); and sets the drainage: a ditch between households, channels for ten, watercourses for a hundred, larger channels for a thousand and a river for ten thousand, each with a path or road on its bank (夫間有遂…十夫有溝…萬夫有川). The rural chain of settlements is five-based (五家為鄰…五縣為遂). The page is a manual of offices and contains no executed survey, no date and no locality.




