法典の原文は失われ、名簿だけが残った。「又(また)重罪十条(じゅうざいじゅうじょう)を列す。一に曰く反逆(はんぎゃく)、二に曰く大逆(だいぎゃく)、三に曰く叛(はん)、四に曰く降(こう)、五に曰く悪逆(あくぎゃく)、六に曰く不道(ふどう)、七に曰く不敬(ふけい)、八に曰く不孝(ふこう)、九に曰く不義(ふぎ)、十に曰く内乱(ないらん)。其の此の十を犯す者は、八議(はちぎ)の論と贖(しょく)の限りに在らず。」この一節は北斉の律書にはない。唐の人が編んだ『隋書』刑法志にある。
律はよそにある
『隋書』刑法志は北斉の造律をこう記す。「河清三年、尚書令・趙郡王叡ら、斉律十二篇を奏上す。一に曰く名例、二に曰く禁衛、三に曰く婚戸、四に曰く擅興、五に曰く違制、六に曰く詐偽、七に曰く闘訟、八に曰く賊盗、九に曰く捕断、十に曰く毀損、十一に曰く厩牧、十二に曰く雑。其の定罪九百四十九条。」さらに新令四十巻が上奏され、刑名は五種に分かれた。死(轘(かん、車裂き)・梟首・斬・絞)、流、刑(すなわち耐罪、五歳から一歳まで五等)、鞭、杖である。贖罪はもとは金で、このとき「皆中絹を以て代う」とあり、贖の値まで数目が列ねてある——死罪は絹百匹、流罪は九十二匹。
これらの篇目も、条数も、刑名も、贖の値も、すべてこの一篇の唐代の史志から読んだものである。北斉律の原文は今日伝わらない。だから本稿に書けるのは「『隋書』が記す北斉律」であって、「北斉律の原文はこうである」ではない。これがこの一節を読む第一の規矩である。
十条そのものについても、その性質を見ておかねばならない。新しい刑を設けたのではない。要は最後の一句、「八議の論と贖の限りに在らず」にある。八議は一定の身分にある者のために設けられた議罪の手続きであり、論贖は絹で罪を贖うことであった。この十種の罪を列ねることで、その二つの扉から外されたのである。八議が具体的にどの八項目かは、この二頁のどちらにも列ねられておらず、本稿も補わない。
十条から十悪へ
同じ一篇の志は、隋の開皇新律についても記す。「又た十悪の条を置く。後斉の制を多く採りて、頗る損益あり。一に曰く謀反、二に曰く謀大逆、三に曰く謀叛、四に曰く悪逆、五に曰く不道、六に曰く大不敬、七に曰く不孝、八に曰く不睦、九に曰く不義、十に曰く内乱。」さらに「十悪を犯し及び故(ことさらに)人を殺し獄成る者は、赦に会うと雖も、猶お除名す」とあり、恩赦にあっても除名は免れない。志には贖銅の等級、八議の科、官品による減等も記され、一つの制度をなしている。
二つの名簿を並べてみると、違いは小さくない。北斉の「反逆」「大逆」「叛」は、隋ではいずれも「謀」の字が加わって「謀反」「謀大逆」「謀叛」となった。北斉にあった「降」は隋の十悪にはない。隋には「不睦」が増え、北斉の「不敬」は「大不敬」となった。だから「十悪とは北斉の重罪十条の名を改めたものだ」とは言えない。『隋書』自身の言葉は「後斉の制を多く採りて、頗る損益あり」——採り、また改めた。淵源であって、同一ではない。
同じ篇は北周についても記す。「十悪の目を立てず。しかれども悪逆・不道・大不敬・不孝・不義・内乱の罪を重んず。」名目は立てないが、そのうち六項を別に取り出して重くした。北斉・北周・隋の三家がそれぞれ取捨しているところを見れば、「十条」「十悪」といった名簿は、当時の立法のなかでは増減のきく技術的な取り決めだったことがわかる。
北魏の側
もう一つの書は『魏書』刑罰志で、記すのは北魏である。世祖神䴥年間、「司徒崔浩に詔して律令を定めしむ」。五歳・四歳の刑を除き、一年の刑を加えた。大辟を二等(死、斬死)に分かち、さらに絞を加える。大逆不道は腰斬、同籍まで連座して誅され、十四歳以下の男子は腐刑、女子は官府に没入。親を害した者は轘(かん、車裂き)。蠱毒をなす者は男女とも斬り、その家を焼く。巫蠱の者は「羖羊(こよう)を負わせ犬を抱かせて諸(これ)を淵に沈む」。拷訊は四十九を過ぎない。死罪は「部案奏聞」を要し、諸州の大辟は「皆先づ讞報(けんぽう)して乃ち施行す」。宮門の左側には登聞鼓を懸け、冤があれば鼓を打つことができた。
これらは北魏の条目と手続きであって、北斉のものではない。『魏書』は北斉の人・魏収の手になりながら、記すのは北魏の一朝である。『隋書』は唐人が修め、北斉と隋を追述する。北斉が律を造ったとき「大抵魏・晋の故事を採る」とあるから、両朝の間に継承があるのは確かである。だが『魏書』の条文を北斉律として読めば、朝代を取り違えることになる。この層は書き切っておかねばならない。
この二頁をどう読むか
二頁が残すのは二種の痕跡である。北斉律は唐代の史官に転述され、条目は名を留めて原文は伝わらない。北魏律は自らの史書のなかに条目と手続きを留めた。読者が実際に見ているのは「史官が律をどう書いたか」であって、「律条の原文」ではない。同じ『隋書』の志は、十条を記したあとに評価も添えている。「是(これ)より後、法令明審にして、科条簡要なり」と。さらに「斉人多く法律を暁るは、蓋(けだ)し此れに由るなり」とも言う。同じ一人の唐代の史官が、この十条を写し取りながら、この律の簡明さを讃えてもいる。
だから「野蛮」の二字でこの二頁を括るのはふさわしくない。この十条は技術的な例外リストである。ある種の罪を、議と贖の通路から外す。北魏の箇所が記すのは、死刑の等級、奏報の手続き、拷訊の上限。いずれも制度設計の問題であって、残虐さの証明ではない。
材料にないもの
欠けているものは明らかである。北斉律の原文、十条それぞれの刑罰、審判の手続き、具体的な事例は、いずれもない。「八議」の名目は二頁とも列ねない。北魏の側の死刑条目も、等級と個別の例だけで、罪名の完全な一覧ではない。両書の数字(九百四十九条、大辟二等)も、編み方が違うのだから、直接には比べられない。
一つの名簿が、北斉から隋唐へと歩いた。名は変わり、内容は増減し、帰属も変わった。北斉では「重罪十条」、隋では「十悪」。追えるのは「転述のなかの名簿」であって、北斉律の全体ではない。北魏の側に残るのは別の一朝の手続きと条目である。二頁を並べて読むと見えてくるのは、律がどう記憶されたかであって、律がどう行われたかではない。
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参考資料・関連文献
- 《隋书》卷二十五·刑法志(唐魏征等撰;维基文库本,未与点校本复核) — A Tang compilation that describes the Northern Qi code the code itself no longer allows us to read. Under the third year of Heqing (河清三年) it reports that the prince of Zhao Commandery and others presented the Qi code in twelve chapters with 949 articles, five names of punishment (death by carriage-tearing, exposure, decapitation, strangling; exile; penal servitude; whipping; caning) and a redemption scale paid in silk. Then: 'it further set out ten gravest crimes: first rebellion, second great逆, third treason, fourth surrender, fifth cruelty to kin, sixth inhumanity, seventh irreverence, eighth unfilial conduct, ninth injustice, tenth incest' (又列重罪十條…其犯此十者,不在八議論贖之限) — those who commit them are excluded from the eight deliberations and from redemption. The same chapter records the Sui's Kaihuang code: 'it further established the ten abominations, mostly adopting the Northern Qi system, with additions and losses' (多採後齊之制,而頗有損益), lists the ten, and notes that the Northern Zhou 'did not establish the ten abominations' but singled out six of them. It also calls the Qi code 'clear and careful in its statutes, brief in its articles', which is why 'the men of Qi mostly understood the law'.
- 《魏书》卷一百一十一·刑罚志(北齐魏收撰;维基文库本,未与点校本复核) — A history of the Northern Wei, a different dynasty from the Northern Qi. It records that in the Shenjia years Emperor Shizu had the minister Cui Hao fix the statutes: the five- and four-year servitudes were abolished and a one-year term added; capital punishment was divided into two grades, death and beheading, with strangling added; great逆 and inhumanity were punished by waist-cutting with the household slain, boys under fourteen castrated and women taken by the state; those who harmed their own kin were torn apart by chariots; poisoners were beheaded and their houses burned; sorcerers were drowned with a black ram and a dog; interrogation was limited to forty-nine blows; every death sentence had to be memorialised, and provincial capital cases reported before execution. It also mentions that the nine-rank officials could use rank to commute punishment, that pregnant women were executed a hundred days after childbirth, and that the sounding drum for grievances hung at the palace gate. These are Northern Wei provisions, not the Bei Qi code.




