封君が最初に手にしたものは、数を含む一文に書き切ることができる。「考烈王元年、黄歇を以て相と為し、春申君に封じ、淮北の地十二県を賜う」(賜淮北地十二縣)——官職、封号、封地、県数が、これで一文になる。これは『史記』春申君列伝の一句であり、「十二県」という数が現れる唯一の箇所でもある。
十二県
『史記』は、その十二県がどの十二県なのか、戸数がいくつあったのか、どれほどの租税を納めたのか、どんな官を置いたのかを書かない。「賜う」とあるだけで、与えたのは楚王、受けたのは黄歇、場所は淮北である。封君の飾り立てについては、別の段に書かれている。客三千余人を抱え、上客は「皆な珠履を履(は)きて以て趙の使に見(まみ)ゆ」——趙の使者はこれを見て大いに恥じた。これは門客であって、封地の役人ではない。
『戦国策』楚策四にも、彼の封地を語る一節がある。虞卿の言葉である。「今、楚王の春秋高し。而して君の封地は、早く定めざるべからず」(君之封地不可不早定也)——楚王は年を取った、あなたの封地は早く定めねばならない、と。この一節には数字が一つもない。県数も、面積も、租税もない。だから「十二県」という数は「『史記』に見える」と記すほかなく、「両書がともに記す」とは書けない。同じ巻には、客が孫子を説く話、魏加が将を論じる話、汗明が門に待つ話もあるが、いずれも人と位の話で、地の話ではない。
献上と、改めての請い
十五年後、この十二県は返された。『史記』はこう書く。「後十五歳、黄歇、楚王に言いて曰く、『淮北の地は斉に辺(へん)し、其の事急なり。請う、以て郡と為す便ならん』と。因りて併せて淮北の十二県を献ず。請う、江東に封ぜられんことを。考烈王、之を許す」(因并獻淮北十二縣。請封於江東)——淮北は斉に接して事が急である、郡に改めるのが便であろう。そこで淮北十二県をまとめて献上し、別に江東への封を請うた。考烈王はこれを許した。『史記』は、この請いに斉との境という以外の理由を記さず、新しい封地が旧い封地より大きかったか小さかったかも書かない。
そのあとで、はじめて城が築かれる。「春申君、因りて故呉墟に城し、以て自ら都邑と為す」(因城故吳墟,以自為都邑)——呉の旧墟に城を築き、自らの都邑とした。順序は見ておく値がある。まず「斉との境が急なり」を理由に旧い封地を献上し、次に江東の地への封を請い、そのうえで旧墟に城を築く。前の地は「献」じて返したものであり、後の地は「請」うて得たものである。どちらの動詞も「取」ではない。
その地は誰のものだったか
この二句から何が読み取れるか。「献」じることができ、「請うて郡と為す」ことができるということは、この十二県が最後まで楚の県だったということである。封君が得たのは、この地の収益と都邑であって、土地の主権ではない。王は与えることができ、取り戻すこともでき、さらに郡県に戻すこともできた。この層は「献」「請以為郡」の二句からの推論である。二つの頁には制度の定義が一句もなく、後世の封君制度を逆算して当てることはできない。同じ巻には、客が「百里の勢い」(百里勢)を孫子に貸すなと勧める段もあり、これも地が貸し出され、取り戻されうるものだったことの証しである。
『戦国策』の虞卿は、もっと露骨に言う。「主君の為に封を慮る者は、楚を遠くするに如くは莫し。秦の孝公、商君を封じ、孝公死して後、免れて殺さるるを得ず。秦の恵王、冉子を封じ、恵王死して後、王之を奪う。公孫鞅は功臣なり。冉子は親姻なり。然るに免れて奪死を免れざるは、封近ければ故なり。太公望は斉に封ぜられ、召公奭は燕に封ぜられしは、其の王室を遠くするが為なり」(封近故也)——勧めはこうである。北へ兵を進めて趙に徳を施し、乱れた燕を踏みにじって、身の封を定めよ、と。封地の安危は、それを封じた人間の側にあった。
封君の日々と、その最期
封君の日々を、史書は具体的に書く。客三千余人、上客は珠の履を履く。楚の相として二十二年、諸侯が合従して西のかた秦を伐ち、楚王が従長となり、春申君が事を用いたが、「函谷関に至り、秦、兵を出だして攻む。諸侯の兵、皆な敗走す」——楚王はこれによって彼を咎め、彼はいよいよ疎んじられた。のち楚が陳を去って寿春に遷ると、春申君は「此に由りて呉の封に就き、相事を行う」——人は封地に移ったが、相の職務はなお担っていた。
最期は棘門である。楚の考烈王が卒すると、李園は「死士を棘門の内に伏せしめ」た。春申君が棘門に入ると刺され、「其の頭を斬り、之を棘門の外に投ず」、ついで「尽く春申君の家を滅ぼす」。封邑は人とともに終わった。司馬遷はのちに楚の地へ行き、その城を見ている。「吾、楚に適(ゆ)き、春申君の故城を観るに、宮室盛んなり哉」——城と宮室は残り、封君の家はなかった。「宮室盛んなり哉」は司馬遷が目の当たりにした光景であって、封地の大きさを量った言葉ではない。列伝は「尽く春申君の家を滅ぼす」で筆を止め、封地がその後どうなったかは書かない。
二つの頁にないもの
二つの頁には、封地の面積も、里数も、戸数も、租税もなく、封君の属官の編成も、「封君制度」の定義もない。「十二県」は『史記』にのみ見え、二書の互証には使えない。サイト内の『三十六郡』の稿とは、一句だけ対読できる。同じ地を、楚は「郡と為す」ことができ、秦は郡県で天下を治めた——という一句である。だがこの稿が扱うのは、一人の手にあった一つの地であって、「分封」と「郡県」のどちらが良いかという結論ではない。「戦国四公子」のような文学的な総称も書かない。頁は孟嘗・平原・信陵を春申と並べるだけで、その名目を持たない。図版も、地図も、名簿もない。残るのは二冊の書の十数句であり、それで一つの封地が一人の一生を終えるまでを辿るには足りる。
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参考資料・関連文献
- 《史记》卷七十八·春申君列传(西汉;维基文库本,未与点校本复核) — The fief in one paragraph: 'In the first year of King Kao Lie, Huang Xie was made chancellor, enfeoffed as Lord Chunshen, and granted the land of Huaibei, twelve counties' (賜淮北地十二縣). Fifteen years later: 'Huang Xie said to the king of Chu: "The Huaibei land borders Qi and its business is urgent; it would be convenient to make it a commandery." He thereupon handed back all twelve Huaibei counties and asked for a fief in Jiangdong; King Kao Lie consented. Lord Chunshen then walled the old ruins of Wu and made it his own capital' (因并獻淮北十二縣。請封於江東……因城故吳墟,以自為都邑). Later, after the move of the Chu capital, 'Lord Chunshen went from there to his fief at Wu and carried on the business of chancellor' (就封於吳,行相事). Sima Qian's own comment: 'I went to Chu and saw the old city of Lord Chunshen; its palaces and chambers were magnificent indeed!' (吾適楚,觀春申君故城,宮室盛矣哉). The end: Li Yuan's assassins in the gate, the head thrown outside it, and 'the whole house of Lord Chunshen was wiped out' (盡滅春申君之家). The number twelve appears only here.
- 《战国策》卷十七·楚策四(汉高诱注、宋姚宏续注;四库全书本,维基文库本,未与点校本复核) — The chapter's counsel on fiefs, with no number anywhere: 'Yu Qing said to Lord Chunshen: "…the king of Chu is advanced in years, and your fief cannot be settled too early. To plan a fief for you, nothing is better than distance from Chu. Duke Xiao of Qin enfeoffed Lord Shang; when Duke Xiao died, he could not escape being killed. King Hui of Qin enfeoffed Ranzi; when King Hui died, the king took it back. Gongsun Yang was a man of merit, Ranzi a kinsman by marriage, and yet they could not escape dispossession and death — because the fief was close. Tai Gong Wang was enfeoffed in Qi and Duke of Shao Shi in Yan, because those were far from the royal house. Now Yan's crime is great and Zhao's anger deep, so you had best march north to win Zhao by deed and tread down rebellious Yan to settle your own fief; this is the one moment in a hundred generations"' (為主君慮封者,莫如遠楚……封近故也). The chapter also carries other Chunshen anecdotes (a guest on Sunzi, Wei Jia on generals, Han Ming at the gate), but no county count, no acreage, no revenue.




