『書経』多士篇の一句は、のちに商代に書があった証拠としてしばしば引かれる。「お前たちは知っているはずだ、殷の先人には冊があり典があり、殷は夏の命を革めた」(惟爾知,惟殷先人有冊有典,殷革夏命)。語っているのは周公で、これは誥命のなかの言葉である。その「冊」「典」がどんな姿をしていたのか、この頁は一言も説明しない。商代の冊・典の実物は、一点も残っていない。
周公が洛邑で語ったこと
多士篇は冒頭で場を明示する。「三月、周公はじめて新邑洛にて、商王の士に告ぐ」(惟三月,周公初于新邑洛,用告商王士)。全篇は周公が王に代わって語る形をとり(「王若曰」)、相手は西邑、すなわち洛邑へ移された殷の遺民である。話はまず天命から始まる。夏は徳を失い、天は罰を下し、殷の先祖である成湯に「夏を革める」よう命じた。のちに殷もまた徳を失い、天は喪を下した。だから周が殷に代わるのも同じく天命である。その半ばに、あの一句が出てくる。「お前たちは知っているはずだ、殷の先人には冊があり典があり、殷は夏の命を革めた」(惟爾知,惟殷先人有冊有典,殷革夏命)。続くのは相手の反論である。「お前たちはまた、夏の者は王庭に選ばれ、百僚のなかに職を得ていた、と言う」(今爾又曰,夏迪簡在王庭,有服在百僚)。これに答えて「わたし一人は徳ある者だけを用いる」と言う(予一人惟聽用德)。
この一節で「冊」「典」という二語が果たしているのは、相手に念を押すことだけである。お前たち自身の過去には記録があり、殷が夏を革めたという先例をお前たちは知っている。先例がある以上、周が殷を革めたのも孤例ではない、と。これは説得の話術であって、蔵書の棚卸しではない。同じ一節のなかで、冊が何巻あったのか、典とは何だったのか、どこに蔵されたのか、誰が管理したのかは語られず、多士篇のどこにも冊・典の第二の言及はない。この一句を「商代の文献目録」として読むのは、それを論争の文脈から引き抜いて単独で読むことにほかならない。
二つの実物は、どちらも残っていない
文献は商人に冊があり典があったと言うが、考古学は実物を見ていない。これは現状であって、「商人には無かった」という証明ではない。今日見ることのできる商代の文字は、主に二種類である。甲骨に刻まれた卜辞と、銅器に鋳られた銘文。この二つは「冊」ではなく「典」でもなく、それぞれに用途と形制をもつ、別種の媒体にすぎない。それで冊・典の空白を埋めるのは、別の問いに答えていることになる。
後漢の許慎は、商代の冊を見たとは言っていない。だが「前代の古文」は見ている。『説文解字』巻十五の叙にこうある。「各地の山川からしばしば鼎彝が出土し、その銘文はすなわち前代の古文で、みな互いによく似ている」(郡國亦往往於山川得鼎彝,其銘即前代之古文,皆自相似)。この一句は二つのことを伝えている。後漢の人は銅器の銘文から前代の文字を知ったということ。そして、商代の典冊を見たとは言っていないということ。叙にはこのほか、孔子の壁中書(魯恭王が孔子の宅を壊して得た『礼記』『書経』『春秋』『論語』『孝経』)と、北平侯張蒼が献じた『春秋左氏伝』が記される。いずれも戦国から漢初にかけての竹帛の本とされ、商よりはるかに遅い。
許慎が書いたのは字形の歴史
『説文解字』叙は、後漢の人による文字の小史であり、その主線は字形にある。神農は結縄して治め、のちに「庶業其繁、飾偽萌生」——生業が繁くなるにつれて、飾りや偽りが芽生えた。黄帝の史官である倉頡は「鳥獣蹄迒の跡を見て」はじめて書契を作った。「類に依って形を象る、故に之を文と謂う。其の後、形声相益して、即ち之を字と謂う」(依類象形,故謂之文;其後形聲相益,即謂之字)。「竹帛に著したるを、之れを書と謂う」(著於竹帛謂之書)。次に六書があり、宣王の太史籀による大篆十五篇があり、孔子の六経と左氏伝の「古文」がある。七国は「文字異形」——文字の形が国ごとに異なった。秦が天下を併せると、李斯が「之を同じくせん」ことを奏し、「秦文に合わざる者を罷め」、『倉頡篇』『爰歴篇』『博学篇』を作った。「皆な史籀の大篆を取り、或いは頗る省改する、所謂小篆なる者なり」。秦は「経書を焼滅し、旧典を滌除」し、隷書が起こり、「而して古文は此より絶えたり」。漢が興ると草書があり、尉律は「学僮十七以上にして始めて試み、籀書九千字を諷じ、乃ち史と為る」と定め、さらに八体を試みさせた。王莽のときには甄豊が文書を校し、六書があった。
典は二度、冊は一度
この一続きのなかで「典」は二度現れる。「皆其の典籍を去る」(皆去其典籍、七国)と「旧典を滌除す」(滌除旧典、秦)——どちらも後世の書が棄てられ、焼かれたことを語るもので、商代の記録ではない。「冊」がこの二頁に出るのは一度だけ、多士篇のあの一句である。許慎が問うたのは「誰が記録を保管したか」ではなく、「字形がどう変わり、古文がどう絶え、漢の人たちがどう読み直したか」であった。『説文』の体例は「今篆文を叙し、古籀を合せ」(今叙篆文,合以古籀)「部居を分別す」(分别部居)とされ、書末には「此れ十四篇五百四十部、九千三百五十三文」と自記する。商代はこの叙述のなかでは「前代の古文」の一区間に属し、それ自体の記録の歴史をもたない。
二つの頁のあいだ
二頁を並べると、それぞれが少しずつ与えてくれるが、合わせても足りない。一頁は西周初の誥命で、「冊」「典」という既製の二語によって、殷の遺民に「お前たち自身が知っているはずだ」と念を押す。もう一頁は後漢の字書の叙で、字形を語り、竹帛を語り、秦の書同文と漢の尉律を語り、ついでに鼎彝が前代の古文であることに触れる。どちらの頁も、冊が何枚の簡を編んで成るのか、典がどんな形制なのか、商代の冊・典がどこに蔵され、どの官が管理したのかは語らない。この空白を甲骨や金文で埋めることはできないし、後世の「竹簡の書籍」から逆算してもいけない。
もう一層の注意がいる。「書同文」は秦の事業である。許慎ははっきり書いている。「秦の始皇帝はじめて天下を兼ね、丞相李斯乃ち奏して之を同じくす」(秦始皇帝初兼天下,丞相李斯乃奏同之)。七国が「文字異形」であったのちに、この一度の整理があった。それを商代に移すのは、一千年を一句に圧縮することに等しい。同じく「竹帛に著したるを、之れを書と謂う」は後漢の人が「書」に下した定義であって、商代にすでに竹帛の書があったという証拠ではない。竹帛という二文字は、この二頁では一方が定義のなかの材料名、他方が後世の本であり、どちらも商代の出土物ではない。
だからこの一篇で書けるのは、ここまでである。周初の誥命のなかの一句、後漢の字書の叙のなかの字形史、そして両者のあいだにある明確な空白。文献は商人に冊があり典があったと言う。考古学は実物を見ていない。「冊」「典」がどんなものだったのか、二頁は語らない。「中国最古の書物」とは書かないし、甲骨から典冊の制度を推し量ることもしない——それは別の種類の材料が答えるべき問いである。
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参考資料・関連文献
- 《尚书·多士》(维基文库本,未与点校本复核) — The only place on these two pages where the word ce, 'record', occurs. The chapter's opening: 'in the third month the Duke of Zhou, for the first time at the new city of Luo, spoke to the former officers of the Shang king' (惟三月,周公初于新邑洛,用告商王士); the speeches are put in the king's mouth ('the king said', 王若曰) and address the Yin survivors moved west to Luoyi (予惟時其遷居西爾). The line: 'you know that the Yin ancestors had volumes and statutes, and that Yin overthrew Xia' (惟爾知,惟殷先人有冊有典,殷革夏命), immediately followed by the audience's counter-argument 'now you say that the men of Xia were promoted into the royal court and served among the hundred offices' (夏迪簡在王庭,有服在百僚) and the answer 'I employ only the virtuous' (予一人惟聽用德). The passage is about the mandate and the precedent of dynastic change; it gives no number, form, place or officer for the volumes, and the chapter never mentions them again. The page carries the text only, no commentary.
- 《说文解字》卷十五·叙(东汉许慎;维基文库本,未与点校本复核) — An Eastern Han history of writing, with letter-forms as its spine. Knotted cords under Shennong, then Cang Jie making writing (初造書契); 'forms copied by kind are called wen; when forms and sounds were added, they are called zi' (依類象形,故謂之文;其後形聲相益,即謂之字); 'written on bamboo and silk it is called shu' (著於竹帛謂之書). Then the six scripts, Shi Zhou's fifteen chapters of great seal, the ancient script of the classics; the seven states with 'characters of different shapes' (文字異形); Qin's unification, Li Si's memorial to make them the same, 'abolishing whatever did not match the Qin script' (罷其不與秦文合者), the three character primers and the small seal; Qin's 'burning of the classics and clearing away of the old statutes' (燒滅經書,滌除舊典), the rise of clerkly script, 'and from this the ancient script died out' (而古文由此絕矣); the eight Qin scripts, Han cursive, the statute testing youths on nine thousand characters, and Wang Mang's six scripts. On older writing: 'in the provinces they often dig from mountains and rivers bronze vessels, whose inscriptions are the ancient script of former ages, all resembling one another' (郡國亦往往於山川得鼎彝,其銘即前代之古文,皆自相似), alongside the books found in Confucius's wall and the Zuo Zhuan presented by Zhang Cang. The word dian appears only of later losses — the seven states 'discarding their records' (皆去其典籍) and Qin 'clearing away the old statutes' (滌除舊典) — never of Shang archives; the word ce does not appear in the preface at all. The page gives the preface text without commentary.




