詩の冒頭は戦報のようだ。「あの殷武を打ち、勢いよく荊楚(けいそ、Jing Chu)を伐つ」。激しく荊楚を攻め、険しい要害の奥深くまで入り、荊楚の民を集めた、という。ところが最終章は戦場を離れ、丘に登って松や柏を伐り、垂木を削って方形に整え、柱を並べ立てる——「寝殿成りて、はなはだ安し」(寢成孔安)。冒頭は戦、末尾は廟。結末を知ってはじめて、冒頭の二句がどんな性質のことばか分かる。

これは誰の祭りか

「殷武(いんぶ、Yin Wu)」は『詩経』商頌(しょうしょう、Shang song)の最後の一篇で、毛詩序がその用途を一行で片づけている。「『殷武』は高宗を祀るなり」(毛詩序:《殷武》,祀高宗也)。高宗とは誰か。『史記』殷本紀は、武丁の死後、祖己が王の祥雉を徳に変えたことを嘉して「その廟を立てて高宗と為す」(立其廟為高宗)と記す。ここで二つの頁が接続する。武丁を祀る歌が、商頌の末位に置かれているのだ。

商頌がいつ作られたかは説が分かれる。古い説は商代の原作とみなし、別の説は宋国の祭祖の楽歌とみなす——宋は商人の後裔であり、商王を祀り商頌を唱った、その成篇は春秋まで下るかもしれない。本稿は両説を併記し、裁決しない。どちらにせよ肝心なのは、これが宗廟で歌われる歌であって、史官に送られる軍報ではないということだ。廟で歌われるものには別の務めがある。儀節の次第に合い、祖宗の功業を称え、儀式の終わるところで収まらなければならない。

詩のなかのあの戦い

詩の最初の二章は戦いを速く描く。「あの殷武を打ち、勢いよく荊楚を伐つ。その険阻の奥深くに入り、荊の軍勢を集める。その地を截ち整える——湯孫の功業である」(撻彼殷武,奮伐荊楚。罙入其阻,裒荊之旅。有截其所,湯孫之緒)。続いて詩は方位だけを与える。「汝、荊楚は、国の南郷に居る」——荊楚は「国」の南にある。どこか、どれほど遠いか、どう進んだか、詩は語らない。

さらに詩は南からはるか遠くへ及ぶ。「昔、成湯がいた。彼の氐羌からでさえも、敢えて来て献じない者はなく、敢えて来て朝見しない者はなかった。曰く、商はこれ常なり」(昔有成湯,自彼氐羌,莫敢不來享,莫敢不來王。曰商是常)——成湯の時から、氐羌のような遠き者さえ献物を携えて来ず、朝廷に来ないことはなかった。これが商の「常法」である。そして「商邑は翼翼たり、四方の極」——都城は整い威容を備え、四方の中心である。ここまで来ると、南征は「遠近みな来朝する」という枠のなかに収められている。荊楚は戦役の目標ではなく、この枠のなかで来るべきに来なかった一つの名なのである。

本紀が書く武丁

同じ事柄について、『史記』はまったく別の内容を与える。武丁は即位して「殷を復興せんと思えども、未だその佐を得ず」、三年ことばを発せず、政事は冢宰に委ね、自らは傍らで国風を見る。夜、聖人「説」という夢を見、傅険に人を遣って探させ、壁を築いていた傅説を見つけて相に挙げ、「殷国大いに治まる」。のち成湯を祭ると、翌日、飛雉が鼎の耳に止まって鳴き、武丁は恐れた。祖己は「王よ、憂うることなかれ、まず政事を修めよ」と言い、さらに天命と民事の道理を諭した。そして一句の総括に落ちる。「武丁、政を修め徳を行う。天下咸な驩び、殷道復興す」(武丁修政行德,天下咸驩,殷道復興)。

この段落に荊楚はなく、南征もなく、いかなる戦役もない。書かれているのは人を用いること、諫めを聴くこと、政を修めること、そして一度、天意と解された異象である。頌歌は威を書き、本紀は徳を書く。頌歌は廟で祖宗の武功を唱え、本紀は机のほとりで王朝の興亡を記す。両者は必ずしも矛盾しない。だが同じ問いに答えているのではないから、合わせて一つの戦報にはできない。

なぜ末章は木を伐るのか

詩の最終章は突然、戦場から離れる。「かの景山に登れば、松柏がまっすぐに立つ。伐って運び、角を削り、謹んで仕上げる。松の垂木は長く、並ぶ柱はゆったりと広く、寝殿が成ってたいそう安らかだ」(陟彼景山,松柏丸丸。是斷是遷,方斵是虔。松桷有梴,旅楹有閑,寢成孔安)。

これは廟を建てたことを書くのであって、功を記すのではない。詩全体の用途を、ここが明らかにしている。まず祖先が戦った戦、受けた天命を唱え、最後にこの祖先のために建てた廟を唱う。毛詩序はこの篇を「高宗を祀る」と言い、末章は「寢成孔安」と言う。二つは符合する。六章の構成は、討ちに行くこと、来朝すること、天命、都城、そして最後に建廟——これは廟祭の歌であり、「廟が成った」ということに落ち着く。だから冒頭の「奮伐荊楚」は、祭歌のなかの追述であって、当時の軍報ではない。

ここにないもの

年も、兵力も、行軍の路線もなく、「荊楚」が方国なのか部族なのか地域なのかも書かない——詩が与えるのは「南郷」という方位だけである。将帥の名もない。「湯孫」が篇中もっとも具体的な人物に近い一箇所だ。勝敗の細部もなく、「その地を截ち整えた」と言うだけ。これらの欠けを『史記』は補わない。本紀の武丁の段はこの戦をそもそも収めていない。甲骨卜辞に関連する征伐の記録があるかは、本稿が拠る二つの頁の範囲外であり、本稿は引かず、それを用いて穴を埋めようともしない。

だから「商の軍はどこまで行ったか」という問いに、この二頁は半分しか答えを許さない。一首の祭歌は、商軍が荊楚を討ち、その険阻の奥深くへ入ったと言う。一篇の本紀は、武丁が殷道を復興したと言う。二つの文はそれぞれ成り立つが、合わせても遠征の路線図にはならない。かえって確かなのはこの落差そのものである——同じ一つの戦争が、廟堂の歌唱では祖宗の功業であり、史官の世系ではそもそも場所を持たない。商の兵鋒がどこまで及んだかを問うなら、まず問うべきは、あなたの手にあるのはどの種類のテキストか、である。

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参考資料・関連文献

  1. 《诗经·商颂·殷武》(维基文库本,含毛诗序;未与点校本复核) — One ode of the Shang hymn group, printed with the Mao preface: 'The Yin Wu is a sacrifice to the Exalted Ancestor' (毛詩序:《殷武》,祀高宗也). The poem opens with a campaign — 'he smote that martial Yin: it fiercely attacked Jing and Chu; it penetrated deep into their strongholds and gathered the hosts of Jing; their ground was cut out and ordered, the work of Tang's descendant' — places Jing and Chu 'in the southern quarter of the realm', reaches back to Cheng Tang and the Di and Qiang who 'dared not fail to come with offerings, dared not fail to come to court', calls the capital 'the pole of the four quarters', and ends not with a victory but with the building of a temple: pines and cypresses cut on Jingshan, rafters and pillars raised, 'the chamber finished and deeply at peace' (寢成孔安). The page gives the text and the preface only: no date, no campaign narrative, no names of commanders, no numbers.
  2. 司马迁《史记》卷三·殷本纪(西汉;维基文库本,未与点校本复核) — A Western Han dynastic narrative. Its account of Wu Ding (武丁) has him think of reviving Yin without finding a helper, keep silent for three years while the chief minister decided affairs, dream of a sage named Yue, find Fu Yue at Fu Yan and make him minister, receive the omen of a pheasant on the cauldron's ear, be admonished by Zu Ji, and then 'cultivate government and practise virtue, so that all under heaven rejoiced and the way of Yin revived' (武丁修政行德,天下咸驩,殷道復興). After his death Zu Ji, admiring how he made the portent a matter of virtue, 'established his temple and named him Exalted Ancestor' (立其廟為高宗). The chapter contains no campaign against Jing or Chu, no southern war at all for this reign, and gives no dates or numbers for any of it.