大定二十九年(一一八九年)十二月、金は塩の価格を一斤三十文と定めた。この定価を記すのは『金史』巻四十九「食貨四·鹽」である。同じ頁の宰臣の奏には、官府自身の元手も漏れている——「每斤官本十文」、一斤の官本は十文。二つの数は数行を隔てて並び、どちらも市場価格ではない。この篇はこの一巻だけに拠る。元が修めた『金史』の塩法一篇、史源は一つ。頁にないものは、以下でないと書く。
まず、これがどう売られたか。金の榷貨は十目、「鹽為稱首」——塩がその首座である。売るには三つの紙が揃わねばならなかった——「鈔、引、公據三者俱備然後聽鬻」。前の二つが何をするかは、頁の別の一句が言う。「鈔,合鹽司簿之符」——鈔は塩司の簿と符を合わせる。「引,會司縣批繳之數」——引は司県が批して納めた数を会わせる。公據は三者に入るだけで、頁に説明はない。山東・滄・宝坻では「斤三百為袋,袋二十有五為大套」——三百斤で一袋、二十五袋で一大套、一套に一鈔、「引如袋之數」、すなわち一袋に一引。解塩は二百五十斤で一席、五席で一套。西京・北京・遼東の塩は石で数え、石数を套に折る。価は斤で書き、売買は袋・席・石で行う。
一、三十八文・二十五文・二十文
論争が始まったとき、価はすでに一度下がっていた。戸部尚書の鄭儼は、宝坻・山東・滄の塩価が「近已減寶坻、山東、滄鹽價斤為三十八文,乞更減去八文」——近ごろ三十八文に下げた、さらに八文下げたい、と言う。八文引けばちょうど三十になる。彼の理由は勘定である。官の估価が高すぎ、貧民は私塩の安さに利し、官課が虧ける(「緣官估高,貧民利私鹽之賤,致虧官課爾」)。この減で一年「不過減一百二十餘萬貫」——百二十余万貫を減らすだけであり、府庫の金銀を銭に折れば「萬萬貫有奇」、百余年分の経費を補える、と。
礼部尚書の李晏は二十五文を主張した。「莫若每斤減為二十五文,使公私價同,則私將自己」——公私の価を同じにすれば、私塩はおのずから止む。同知大興府事の王翛は二十文を主張した。宰臣は元手を卓上に置く。「以每斤官本十文,若減作二十五文,似為得中」——一斤の官本が十文なら、二十五文が中ほどであろう、と。最後に降った旨は三十を取った。「遂命寶坻、山東、滄鹽每斤減為三十文,已發鈔引未支者准新價足之」——すでに発給したがまだ塩を支払っていない鈔引は、新価で補う。三十は戸部尚書が求めた数で、宰臣の言う「得中」より五文高い。
二、十文の官本
「官本十文」は宰臣の奏のなかの一句としてしか存在しない。帳簿もなく、運脚もなく、損耗率もなく、吏の禄もない。だからこの二つの数は並べて置くしかない——官価三十、官本十。それ以上計算すれば、この頁が書いていないものを代わりに書くことになる。この巻には小売価格もない。櫃の前で斤で塩を買う人はおらず、三百斤一袋の斤価は、一家がひとつかみの塩に払う値ではない。
減価でどれだけ省いたかは、明昌五年(一一九四年)十二月に尚書省が述べるまで待たねばならない。山東・滄州は「舊法每一斤錢四十一文」、宝坻は「每一斤四十三文」、大定二十九年に三十へ下げ、「計減百八十五萬四千餘貫」——百八十五万四千余貫という官の口ぶりである。すぐ次の一句が向きを戻す。「後以國用不充,遂奏定每一斤複加三文為三十三文」——国用が足りず、一斤に三文を戻して三十三文とした、と。
三、さらに加える——四十二文と四十四文
承安三年(一一九八年)十二月、山東・宝坻・滄州の三塩司は「每一斤加為四十二文」——一斤四十二文に上がった。他の塩区は自分の単位で値上げする。解州は一席五貫文を「增為六貫四百文」に、遼東・北京は一石九百文を「增為一貫五百文」に、西京の煎塩は一石二貫を「增為二貫八百文」に、撈鹽は一貫五百文を「增為二貫文」に。同じ月に報じられた課額は、七塩司で「六百二十二萬六千六百三十六貫五百六十六文」から「一千七十七萬四千五百一十二貫一百三十七文二分」へ増えた。
泰和四年(一二〇四年)六月、七塩使司の課額は「七年一定為制」となり、「每斤增為四十四文」——この巻が記す最後の官価である。銭の徴収は順調には続かなかった。泰和六年(一二〇六年)三月、朝では山東が五十余万貫を虧いたと報告された。理由は「蓋以私煮盜販者成黨」——私煮・盗販が党を成し、塩司は捕らえられず、統軍司・按察司も禁じない、と。
四、引・袋・席・石
計量の単位は統一されておらず、この巻は一つずつ列挙する。山東・滄・宝坻は三百斤で一袋、二十五袋で一大套、小套は十袋・五袋・または一袋。解塩は二百五十斤で一席、五席で一套。西京は大套五石・小套三石、北京は大套四石・小套一石、遼東は大套十石、「皆套一鈔,石一引」——いずれも一套に一鈔、一石に一引。塩の行き先には界がある。山東・滄州の九つの場は山東・河北・大名・河南・南京・帰徳の諸府路と許・亳・陳・蔡などの州に、解塩は河東・陝西および河南府・陝・鄭・唐・鄧の諸州に、西京・遼東はそれぞれ地元に売る。塩は界を出られない。この点は頁では「行鹽之界,各視其地宜」——塩の行き界は、それぞれその地の宜しきに視る、で始まる。
五、引目に合わない人々
大定二十五年(一一八五年)十月、世宗は上京から戻り、この制度の隙を直接に突いた。「夫細民徐買食之,何由有引目」——細民が少しずつ買って食うのに、どうして引目があろうか、と。この一句のために北京・遼東の塩使司は廃された。大定二十八年(一一八八年)、彼はまた言う。塩官が巡視に出ると、巡捕の者は「往往私懷官鹽,所至求賄及酒食,稍不如意則以所懷誣以為私鹽」——自分の懐の官塩をもって、人を私塩に誣いる、と。そこで別に巡捕使を置き、省部に直隷させ、人家に立ち入って捜索することを禁じ、食塩一斗以下は追究しないことにした。
一巻のうちに、価は三度向きを変えた。大定二十九年に三十へ下げ、数年後に三文を戻し、承安三年に四十二、泰和四年に四十四。同じ巻にはもう一つの道も並んでいる——引を売らず、戸ごとに課を割り当てる。大定二十九年十月、章宗は平・灤・太原の「均辦」の先例に倣って「令民自煎」——民に自ら煎らせたいと言った。明昌元年(一一九〇年)には、河東北路の干办塩銭が一年十万貫で「太重」と報じられ、「以故民多逃徙」——民の多くが逃げ移った。泰和五年(一二〇五年)に山東・滄州の両司は計口承課に改まり、莱・密などの州は「人以為重,恐致流亡」と言われた。この巻は小売価格を与えず、運脚を与えず、総産量を与えず、三十文で何が買えたかも言わない。与えるのは官価・官本・課額と、値段を決めた人たち自身の口論の記録である。証拠はこの一巻だけ。
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参考資料・関連文献
- 脱脱等《金史》卷四十九「食货四·盐」(元修;维基文库本,页面白文无注,未与中华书局点校本复核) — The salt price per jin as the court fixed it: thirty cash after the reduction of 1189, thirty-three once three cash went back on, forty-two in 1198 and forty-four in 1204 — with the ministers' own figure for the state's cost, ten cash a jin. Same juan, first passage; this article rests on this one chapter.
- 同上,《金史》卷四十九「食货四·盐」课额、计量与巡捕诸条(同卷后段,同一史源) — Same chapter, later passages: the bag of three hundred jin and the warrant count per 套, the rise of the seven offices' quota from 6.22 to 10.77 million guan, the emperor's remark that a poor man buying a little salt could not have a warrant, and the salt officers' men who carried official salt to accuse people of private trade. Two entries, one source — stated openly rather than padded with a second history.




