「三十而稅一」という一句は、『漢書·食貨志』の「後十三歲,孝景二年,令民半出田租,三十而稅一也」——十三年の後、孝景二年、民に田租の半を出ださしめ、三十にして一を税せしむ、と、そこから来ている。まず本文の層と範囲から。『漢書』は東漢の人が西漢の事を記したもので、これは追述である。同じ事が『史記·孝景本紀』では「除田半租」——田租の半を除く、とあり、系年も異なる。本篇は田租だけを書く。人頭税(算賦、口銭、更賦)と算緡は別の篇である。

一、漢初:什五而税一

『食貨志』は、漢の興りが秦の弊を受けたことを語る。民は作業を失い、米は石五千、人は相食み、死者は半ばを過ぎた。天下が定まっても、民に蓋蔵はなかった。そこに制度の一句が置かれる。「上於是約法省禁,輕田租,什五而稅一,量吏祿,度官用,以賦於民」——上ここにおいて法を約し禁を省き、田租を軽くして什五にして一を税し、吏禄を量り、官用を度り、以て民に賦す、と。約法省禁、田租を「什五而稅一」まで軽くし、吏禄を量り、官用を度って、それから百姓に賦を課す。同じ段はまた、山川園池市肆の租税収入は「皆各為私奉養」——みな各々私の奉養と為す、と述べる。これは別の種類の収入で、本篇には併せない。また関東の粟を漕転して中都官に給するのは「歲不過數十萬石」——歳に数十万石を過ぎず、とあり、孝惠・高后の間は「衣食滋殖」——衣食滋殖す、という。

文帝の時に二度の減免があり、それは晁錯の穀についての建議から出ている。晁錯は、辺境の食が五年分を支えうれば粟を郡県に入れさせうると言い、一年分以上あれば「可時赦,勿收農民租」——時に赦し、農民の租を取るなかれ、と言う。「上復從其言,乃下詔賜民十二年租稅之半。明年,遂除民田之租稅」——上復た其の言に従い、乃ち詔を下して民に十二年租税の半を賜う。明年、遂に民田の租税を除く、と。先に「十二年租稅の半を賜い」、その明年に「民田の租稅を除く」。この減免の底にあるのは入粟拝爵である。文帝は晁錯の言に従い、「令民入粟邊,六百石爵上造,稍增至四千石為五大夫,萬二千石為大庶長」——民に粟を辺に入れしめ、六百石は爵上造、稍しく増して四千石は五大夫、万二千石は大庶長、と。この「十二年」は一般に文帝の十二年とされる。ここでは通説として標し、二句は原文のまま録し、推算は加えない。

二、景帝:二つの記載

『史記·孝景本紀』元年の条は「五月,除田半租」——五月、田租の半を除く、と。たった一句で、田租を半にしたと言うだけである。税率は示さず、それ以前の税率がいくらであったかも言わない。『漢書·食貨志』は「後十三歲,孝景二年,令民半出田租,三十而稅一也」——まず「後十三歲」で上文を受け、次に「孝景二年」、それから「令民半出田租」、最後に結果の「三十而稅一」を置く。

二つを並べると、一つは年が違い(元年/二年)、二つは言い方が違う(「除田半租」/「令民半出田租,三十而稅一也」)。「三十而稅一」という語は『漢書』にだけ見え、この箇所の『史記』には見えない。本篇はどちらが正しいかを裁断せず、また二つを一つに合わせない。

三、名目と実収:王莽の回顧

同じ『食貨志』の中で、王莽は後に一つの令を下して、この事をもう一度言っている。「漢氏減輕田租,三十而稅一,常有更賦,罷癃咸出,而豪民侵陵,分田劫假,厥名三十,實什稅五也」——漢氏は田租を減軽し、三十にして一を税す。常に更賦あり、罷癃も咸く出だす。而るに豪民侵陵し、田を分かち假を劫む。厥の名は三十、実は什に五を税す、と。名目は三十に一、実収は「什稅五」。その理由は中ほどに書かれている。「豪民侵陵,分田劫假」——豪民が侵陵し、田を分かち、假を劫む、と。同じ令はまた「今更名天下田曰王田,奴婢曰私屬,皆不得賣買」——今、天下の田を更めて名づけて王田と曰い、奴婢を私属と曰い、みな売買を得ざらしめん、と言う。これは王莽の令の中の言葉であり、彼の説として標す。本篇は原文のまま録し、客観の統計としては扱わない。

もう一か所は董仲舒の言葉である。「古者稅民不過什一,其求易共……至秦則不然……或耕豪民之田,見稅什五」——古は民に税するに什一を過ぎず、其の求むる所は共にし易し……秦に至りては則ち然らず……或いは豪民の田を耕し、税を見るに什五なるあり、と。さらに秦については「田租口賦,鹽鐵之利,二十倍於古」——田租・口賦、塩鉄の利は、古の二十倍なり、と言う。ここで二種の租を分けねばならない。国家に納める田租と、豪民に納める佃租(「見稅什五」)である。二つの頁ともにあるが、指しているのは同じ事ではない。董仲舒の策は「限民名田,以澹不足,塞并兼之路」——民の名田を限り、以て不足を澹くし、并兼の路を塞がん、である。

四、二つの層:国家の田租と佃租

だから「三十而稅一」と「見稅什五」を一句の「漢代農民の負担」に合わせることはできない。前者は国家が課す田租の率、後者は佃戸が田主に納める租の率である。王莽は二つの層を一句に置いて批判したが、本篇は分けて書く。税率の変化もまた分条する。漢初は什五に一、文帝はまず半減し後に全免、景帝は半租で三十に一、王莽が王田に改めた時にまたこの一条を回顧する。これらを「漢代の軽税」に合わせない。

五、二つの頁とも与えないもの

二つの頁の税率は分数だけである。什五に一、三十に一、什一、什に五。畝当たり何斗何升という数字は無く、「石」「畝」「頃」も田租の句には出てこない。畝当たりに折るにはまず畝当たりの産が要る。本篇は算えず、総税額を推さず、分数を百分比に折って論じない。各郡の実収、徴収の手順、戸等と納期限も、二つの頁には無い。災年の減免がどう行われたかの記録も無い。

もう一つの限界。文帝が除いた田租がいつ戻ったかについては、頁はただ「後十三歲,孝景二年」と言うだけである。「三十而稅一」がいつまで行われ、全国一律であったかは、二つの頁とも答えない。人頭税と商業税は別の題で、本篇は冒頭に一線を引くだけである。

断片はこれだけである。漢初に「輕田租,什五而稅一」、文帝に「賜民十二年租稅之半」とその明年の「除民田之租稅」、景帝の半租で「三十而稅一」となること(両書の系年は一年違う)、王莽は名目三十・実は什五と言う。税率の句は分数だけであり、誰に、いくら、どう納めるかは、二つの頁とも答えない。

関連記事:問鼎——一つの器物と「在德不在鼎」の一句 · 券を焼く:戦国の債、利子、そして焼券の一夜 · 千石の魚陂——漢代の魚塘と海租

参考資料・関連文献

  1. 《汉书》卷二十四·食货志(东汉班固撰;维基文库本,页面白文无注,未与中华书局点校本复核) — The land-tax passages: after the Han founding, 'the laws were simplified and the prohibitions reduced, the land tax lightened to one in fifteen' (轻田租,什五而税一); under Emperor Wen, following Chao Cuo's advice on grain, 'an edict was issued granting the people half of the land tax for the twelfth year', and 'the next year the land tax on the people's fields was removed' (赐民十二年租税之半。明年,遂除民田之租税); 'thirteen years later, in the second year of Emperor Jing, the people were ordered to pay half the land tax, one in thirty' (令民半出田租,三十而税一也); Wang Mang's order looking back — 'the Han lightened the land tax to one in thirty, but there were always the labour dues… the name was one in thirty, the reality was one in ten taken five' (厥名三十,实什税五也); and Dong Zhongshu's complaint that those who plough a rich man's fields pay a rent of one in two.
  2. 《史记》卷十一·孝景本纪(西汉司马迁撰;维基文库本,页面白文无注,未与中华书局点校本复核) — The same measure in the annals of Emperor Jing, dated a year earlier and worded more briefly: in the fifth month of his first year 'the land tax was halved' (除田半租). The annals give no rate; the words 'one in thirty' appear only in the Hanshu.