日々の暮らし · 商から清まで
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身近な問いから、歴史の世界へ。

五斗の租の田、十四年——南宋の一つの田産訴訟
周村橋頭の田は年租わずか五斗。鄭応瑞と呉八がそれぞれ証文を手に、争いは十四年に及びました。呉八が田を孔主簿に売り、孔主簿がそれを県学へ捨て入れ、代理の県令が来歴を問わずに受け取ります。判官・翁浩堂は二通の干照を並べ、呉八に勘杖一百、県学の榜引は毀抹、干照は鄭応瑞に返すと判じました。

一枚の銭、一反の布、ひとつの銭缿——秦の律は市で何を定めたか
睡虎地秦簡『関市』に残る律文は一条だけ。代金はその場で銭缿に投げ入れ、支払う人に銭の入るのを見せよという。背けば甲一領の罰。同じ墓から出た『金布律』は、布の法定寸法、銭十一枚=布一反という公定換算、千銭一畚の封印、品物に掛ける値を定めている。

三つに割られた田租契約:三国呉簡に見る一県の帳簿
1996年、長沙走馬楼の古井から十万余枚の孫呉簡牘が出土した。うち約2200枚の「嘉禾吏民田家莂」は田租の三聯契約で、頂に大きく「同」字を書き、中央で三つに剖き、官府・監管機構・農家が各一片を保有した。

磚一枚、窖ひとつ:隋唐の国家糧倉はどう記帳したか
縦横33センチの刻銘磚に、蘇州の糙米一万三千石、武則天の通天二年に徴収が始まり聖暦二年十一月八日に入窖したこと、倉史の王亮・監事の張威ら八名の職官の署名が刻まれている。唐代の国家糧倉の入庫証、その一枚である。

六畝の池、九つの洲——北魏の人はどう魚を養ったか
『斉民要術』は『陶朱公養魚経』を引く。六畝の池に九つの洲、二月上庚の日に卵を持つ鯉二十尾を放ち、鼈を入れて魚を守らせ、翌年には銭一百二十五万を得るという。同じ巻は池に藕・蓮子・芡・菱を植える法も教え、凶作の年にはこれでしのげるという。

酪奴と投銭取飲——唐の都の茶店
北魏洛陽の宴で茶は「酪奴」と呼ばれた。二百年後の唐、封演は都市に店が多く開き、茶を煎じて売り、身分を問わず「投銭取飲」——銭を投げ入れれば飲める、と記した。茶は南方の飲み物から街の商売になった。

釱左趾——漢の国家はなぜ塩と鉄を取り上げたか
漢初の塩鉄は「王と肩を並べる富」を生んだ。武帝のとき東郭咸陽・孔僅が塩鉄事を領し、私に鉄器を鋳て塩を煮る者は「釱左趾、其の器物を没入」され、旧塩鉄の富商はそのまま吏に任じられた。

雨を報じ、田を報ず——戦国秦の編戸農民
戦国末の秦は律条で農民を田畑に縛りつけた。雨、穂の出、開墾、災害はすべて頃数で書面報告し、飼料は「受田の数」で徴し、徴発に遅れれば甲盾で罰する。孟子の井田はまた別の青写真である。

開池三十九日——宋の春遊びと商い
三月一日に開池し、四月八日に閉じる。岸の彩棚は借りもの、釣りはまず牌子を買い、釣った魚は倍の値で買い戻される。船賃は大小で格差あり。岸の一本の街には酒食、関撲、質庫が並び、質の期限も閉池の日まで。杭州の人はそれゆえ西湖を「銷金鍋児」と呼んだ。
