日々の暮らし · 商から清まで
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身近な問いから、歴史の世界へ。

中秋——売り切れた酒と、一夜の江
中秋前、開封の酒店は彩楼を組み直し、画竿に醉仙旗を掲げて新酒を売った。市民が争って飲み、午未の間にはどの店にも酒がなくなり、望子を引き下ろす。夜は貴家が台榭を飾り、民は酒楼を争って月を玩び、夜市は暁まで続いた。臨安の江には羊皮の小水灯数十万盞が浮かんだ。

銭缿——戦国の市はどう回っていたか
戦国末の秦の法は、市で代金を受け取ったら支払う人の目の前で「銭缿」に入れることを求めた。『周礼』は一日三度の市、五種の市税、官営の金庫を構想する。設計図と実務のあいだには、噛み合わない資料の層が幾重にも挟まっている。

九割は粟——商代の人は何を食べていたのか
殷墟の亜長墓から出土した九例の人骨は、商代の食卓の九割が粟だったことを示す。肉は身分で配分され、貴族は豚・牛・羊や野味にありついたが、牲人はほとんど肉を口にできなかった。青銅の酒器は揃いで副葬され、陶罍からは梅の核も見つかっている。

端午前の四日間——宋代の節物市場の一勘定
五月一日から端午の前日まで、開封の街には桃・柳・葵花・仏道艾が並んだ。節物の品書きは百索艾花・銀様鼓児花・花巧画扇・香糖果子・粽・白団の六品。巧粽は楼台や舫輅に結ばれ、どの門にも大盆が据えられた——「貧者と雖も亦然り」。

囲盆と抓周——宋人はどう子どもを迎えたか
南宋の臨安。満月の日、親類が銀の盆を囲み、香湯に果物と彩銭を浮かべ、年長者が金銀の簪で水を攪り、客が銭を撒く。一歳の抓周では中堂に誥勅・書籍・秤・針線を並べ、子がまず何を抓るかを見た。二冊の宋人筆記は、この礼が金のかかる家のものだったことも記している。

泥と絹と金——宋の七夕の土人形「磨喝楽」
七夕の前、開封の瓦舎や馬行街では「磨喝楽」と呼ばれる小さな泥人形が売られた。彫木の台に紅紗の籠、金珠翡翠をまとう。一対で数千文のものもあり、南宋には修内司が年に十卓・三百枚を献じた。

棚のなかの説話人:宋代の瓦舎と書場
北宋開封の瓦舎では、説話が四家数に分かれ、それぞれに門庭があった。小説人は煙粉・霊怪・公案を語り、講史人は『三分』『五代史』を語る。霍四究は三国を、尹常売は五代を語り、講史の名手・王六大夫はもと御前供話だった。孟元老はただ一句を残す——風雨寒暑を問わず、諸棚の見物人は日々かくのごとし。

吟叫百端——宋の街の呼び声はどう宮調に入ったか
北宋の汴京では、夜明け前に薬や食べ物を売る者が「吟叫百端」と謳った。呼び声はやがて宮調に採り入れられ「叫声」という語り芸になった。臨安には吟叫で食う芸人が六人、少女の「像生叫声社」もあった。

露台の懸賞:宋の職業相撲
宋の相撲はまっとうな商売だった。瓦市の路岐人がまず女飐に套子を打たせて客を集め、力士が争交する。護国寺南高峰の露台の頭賞は旗帳・銀盆・彩段・錦襖・官会・馬匹の六品。宮中の内等子は定員百二十名、三年に一度、殿上で呈試した。
