『康誥』について最もよい要約は、『康誥』の中にはない。『史記』にある。『史記』巻三十七「衞康叔世家」は、康叔が封ぜられたとき、「周公旦懼康叔齒少,乃申告康叔曰:『必求殷之賢人君子長者,問其先殷所以興,所以亡,而務愛民』」——周公旦は康叔が齒少(若い)ことを懼れ、あらためて康叔に告げた。必ず殷の賢人・君子・長者を求め、その先の殷が興ったゆえん、亡んだゆえんを問い、務めて民を愛せ、と。打ち下ろしたばかりの土地で、最初の言い含めは前朝の老人に会いに行くことだった。この篇が書くのは、その言い含めから出てきた『康誥』である。一篇の誥命であって、法典ではない。
一、誰に、どこを封じたか
まず背景。周が殷を克したのち、殷の余民はまず紂の子、武庚祿父に与えられた。のちに管叔・蔡叔が武庚とともに乱を起こすと、「周公旦以成王命興師伐殷,殺武庚祿父、管叔,放蔡叔,以武庚殷餘民封康叔為衞君,居河、淇閒故商墟」——周公旦は成王の命をもって師を興して殷を伐ち、武庚祿父と管叔を殺し、蔡叔を放ち、武庚の殷余民をもって康叔を衞君に封じ、河と淇の間、商の故墟に居らせた。場所は具体的である。河、淇の間、商の故墟。封ぜられた人は「武王同母少弟」、武王の同母の末弟で、まだ若かった。
封とともに三篇の告諭があった。「告以紂所以亡者以淫於酒……為梓材,示君子可法則。故謂之《康誥》《酒誥》《梓材》以命之」——紂が酒に溺れて亡んだこと、酒の失、婦人を用いたことを告げ、『梓材』を作って君子の法則たるべきを示し、だから『康誥』『酒誥』『梓材』と呼んで命じた、という。効果は一句だけ。「康叔之國,既以此命,能和集其民,民大說」——康叔は国に入り、この命によって民を和集し、民は大いに悦んだ。のちに「成王長,用事,舉康叔為周司寇」——成王が長じて事を行い、康叔を周の司寇に挙げた。この頁が彼の政治について与えるのはこれだけである。一句。この篇はこれに付け足さず、衞で彼が何をしたかを編みもしない。
二、「王若曰」の王は誰か
『康誥』は通篇「王若曰」で、口を開けばこうだ。「孟侯,朕其弟,小子封」——孟侯、わが弟、小子封。王は康叔を「朕其弟」と呼ぶ。ならば語る者は康叔の兄である。『史記』はこの人を周公旦とする。周公旦が「康叔齒少」を懼れて申告した、と。一般には周公が年幼の成王に代わって語ったとされ、別に成王自らの誥とする説もある。二説を並べ、この篇は裁断しない。正文はただ「王」と書く。もう一点説明がある。この頁の頁眉はこの篇を「姬旦」の名に署し、正文はただ「王若曰」とのみ言う。頁眉は後人が編書のときに加えたもので、正文ではない。これを以て正文の人物を定めることはできない。
三、四字の綱
告諭の綱は四字で、しかもまず父を言う。「惟乃丕顯考文王,克明德慎罰,不敢侮鰥寡」——なんじの大いなる顕赫たる亡父、文王は、明徳・慎罰をよくし、鰥寡を侮ることを敢えてしなかった。つづけて王は同じ物差しを康叔に渡す。「敬明乃罰」——謹んでなんじの罰を明らかにせよ。この数句はそのまま写し、この篇はこれを政治哲学に引き伸ばさない。
最も実な言い含めは、問いに行けというものだ。「往敷求于殷先哲王,用保乂民。汝丕遠惟商耇成人,宅心知訓」——往って殷の先哲王を広く求め、もって民を保乂せよ。なんじは商の耇成人を遠くにありとも思い、心に宅めて訓を知れ。「耇成人」は一般に年老いて成徳ある人と解するが、この頁に注はない。同じ段に「作新民」の三字と、一句の諺がある。「怨不在大,亦不在小」——怨みは大にあるのではなく、小にもない。
四、三つの判準
最も鋭い一条は、罪の大小ではなく、心の故と誤を判じる。「人有小罪,非眚,乃惟終自作不典,式爾有厥罪小,乃不可不殺。乃有大罪,非終,乃惟眚災,適爾既道極厥辜,時乃不可殺」——人に小罪があっても、眚(過失)でなく、ただ終(つね)に自ら不典を作すなら、その罪は小なりといえども、殺さざるべからず。大罪があっても、終(つね)でなく、ただ眚災なら、すでにその辜を道(いた)り極めば、時乃ち殺すべからず。「眚」は一般に過失と解し、「非眚」は故意となるが、この頁に注はない。
第二条は大案の時間について。「要囚,服念五六日,至于旬時,丕蔽要囚」——重要な囚は、五六日、旬時(十日)に至るまで服念し、すなわち大いに要囚を蔽(断)せよ。原文をそのまま写し、「まず関に置いて繰り返し考える」とだけ言う。これを制度化された訴訟期限とは言わない。第三条は前朝の判例を用いること。「外事,汝陳時臬,司師茲殷罰有倫」;「罰蔽殷彝,用其義刑義殺,勿庸以次汝封」——外事には、なんじ時に臬を陳べ、この殷の罰を司師して倫あらしめよ。罰は殷彝を蔽い、その宜しき刑・宜しき殺を用い、なんじ封の意に従って決してはならない。「殷罰」「殷彝」は一般に殷の判例と常法と解する(推測による。この頁に注はない)。この篇は商法を復原せず、甲骨も引かない。
五、刑はなんじのものではない
綱の最後の一条は、刑殺の権が封ぜられた者自身に属さない、ということである。「非汝封刑人殺人,無或刑人殺人;非汝封又曰劓刵人,無或劓刵人」——なんじ封が人を刑し人を殺すのではない、人を刑し人を殺す者はあってはならない。なんじ封がまた鼻を割き耳を断てと言うのではない、鼻を割き耳を断つ者はあってはならない。これに添う二つの比喩はもっと柔らかい。「若有疾,惟民其畢棄咎。若保赤子,惟民其康乂」——自分の病のごとくに(治めれば)、民はその咎を尽く棄てる。赤子を保つごとくに(守れば)、民は康乂なる。
もう一条、家の事を重罪に列ねる。「元惡大憝,矧惟不孝不友」——元惡大憝、いわんや不孝不友をや。下文は、子が父の事を敬事せず、父がその子を愛さず、弟が兄を敬わず、兄が幼弟を念わないことを挙げ、これらには「曰乃其速由文王作罰,刑茲無赦」——すみやかに文王の作った罰に由り、これを刑して赦すなかれ、と言う。原文を写し、この篇はこれを倫理学説に書き広げない。
告諭の收尾は短い。「往哉,封!勿替敬典,聽朕告汝乃以殷民世享」——往け、封。敬典を廃てるな、わが告げを聴け、そうすれば殷民を以て世々享けん。だがこれは結局、一篇の言葉であって、律ではない。条文の番号も、刑名の一覧もない。二頁が与えないものも列ねておく。具体の一案、刑罰の執行の次第、康叔が衞を治めた実情(「和集其民」の一句だけ)。篇首に触れられる洛邑の造営は別の題で、一句で触れるだけ。衞の世系は展開しない。紀年は西暦に折らず、「成王の時」と言うだけ。この一篇が残すのは、一句の「老人に問え」、四字の綱、三つの判準、そして一句の「刑はなんじのものではない」である。
関連記事:三百五十九章——削っても増える漢代の法条 · 守・尉・監——秦の郡県の官 · 銭が乏しくなったとき——小銭と、銭を廃する一案
参考資料・関連文献
- 《尚书·康诰》(维基文库本,未与点校本复核) — The proclamation itself, about 1,400 characters. The king addresses 'Meng Hou, my younger brother, the little one Feng' (孟侯,朕其弟,小子封), praises King Wen for being 'able to illustrate virtue and be cautious in punishment' (克明德慎罰), tells him to seek out the former wise kings of Yin and to keep in mind 'the venerable adults of Shang' (商耇成人), and to 'make a new people' (作新民); then the judicial charge — the small offence deliberately and habitually done that must be killed, the great offence by mischance and not repeated that must not be killed (非眚……乃惟終……/非終,乃惟眚災……時乃不可殺), the instruction to ponder important prisoners 'five or six days, up to a ten-day period' (要囚,服念五六日,至于旬時), the use of Yin precedent (司師兹殷罰有倫;罰蔽殷彝), the sentence that punishment is not the lord's own (非汝封刑人殺人), and the close 'do not neglect the reverent statutes… with the Yin people you shall enjoy your line for generations' (勿替敬典……殷民世享). The page carries editorial correction brackets in the text (庸(用), 衣(殷), 宅(度), 已(嘻) and many others); those are the transcribers' variant marks, not the original, and quotations here take the main text only. The page header attributes the chapter to Ji Dan (the Duke of Zhou), while the text itself says only 'the king'.
- 司马迁《史记》卷三十七〈卫康叔世家〉(维基文库本,未与点校本复核) — Why the proclamation was made: after the conquest the Yin remnant was given to Wu Geng, son of the last Shang king; when Wu Geng, Guan Shu and Cai Shu rebelled, the Duke of Zhou 'raised troops against Yin by King Cheng's command, killed Wu Geng and Guan Shu, banished Cai Shu, and gave Wu Geng's remaining Yin people to Kang Shu as lord of Wei, to dwell between the He and Qi on the old Shang ground' (以武庚殷餘民封康叔爲衞君,居河、淇閒故商墟). 'Fearing that Kang Shu was young, he repeated his charge to him: you must seek out the worthy men, gentlemen and elders of Yin, ask why their former dynasty rose and why it fell, and set your mind on caring for the people' (必求殷之賢人君子長者……而務愛民). Then the three texts, the one-line result ('he was able to harmonise and gather his people, and the people were greatly pleased' 能和集其民,民大説), and his later appointment as Zhou's minister of crime. The page has editorial -{…}- marks, which are not quoted.




