最初の出番は「石也」の二文字と句点だけである。『韓非子·和氏』の書き出しはこうだ——「楚人和氏得玉璞楚山中,奉而獻之厲王。厲王使玉人相之。玉人曰:『石也。』王以和爲誑,而刖其左足」。楚の国の人、和氏が楚の山中で玉璞(まだ割っていない玉の原石)を手に入れ、これを厲王に献じた。厲王が玉人(玉を鑑定する工人)に相させると、玉人は『石也』と言った。王は和を欺き者とみなし、その左足を刖た。まだ割らない原石、工人の判定、それに左足一本。この篇は、この玉がテクストの上で三度現れるのを追う。三度それぞれに出典があり、どの二つも一本の線にはつなげられない。
一、卞和——二度の刖足
二度の献上、二度の刖。文はほとんど同じだ——「及厲王薨,武王即位。和又奉其璞而獻之武王。武王使玉人相之。又曰:『石也。』王又以和爲誑,而刖其右足」。同じ判定、同じ処置。左足の次は右足である。玉人が誰だったのか、どう相したのか、何をもって石と言ったのか、この頁は書かない。本篇も補わない。
三度目は泣くことだ。「武王薨,文王即位。和乃抱其璞而哭於楚山之下,三日三夜,淚盡而繼之以血」。これを聞いた王が人をやって問わせる——世に刖られた者は多いのに、なぜそんなに悲しんで泣くのか、と。和の答えは「吾非悲刖也,悲夫寶玉而題之以石,貞士而名之以誑,此吾所以悲也」——刖られたことが悲しいのではない。宝玉に「石」という札を付け、貞士を「誑」と呼ぶ、それが悲しいのだ。そこで「王乃使玉人理其璞而得寶焉,遂命曰『和氏之璧』」——王は玉人に原石を磨かせて宝を取り出し、これを「和氏の璧」と名づけた。
二、『韓非子』ではこれは論拠である
この層は固定しておく。『韓非子』において卞和の物語は楚の記録ではなく、議論の書き出しである。物語が終わると、韓非はすぐさま話を転じる——「夫珠玉,人主之所急也。和雖獻璞而未美,未爲主之害也,然猶兩足斬而寶乃論,論寶若此其難也」。人主が最も急ぐ珠玉でさえ、両足を斬られてはじめて認められる。宝を論ずるとは、それほど難しい。そこから彼は「法術之士」に話をつなぐ——「有道者之不僇也,特帝王之璞未獻耳」。そして吳起が楚で枝解され、商君が秦で車裂された例を挙げる。だから本篇は卞和のくだりを物語として引くだけにとどめ、韓非の議論は議論として示す。楚の歴史には混ぜない。
「和氏之璧」と名づけられてから、それが趙に現れるまでの間は空白である。『韓非子』の頁はここで議論に移り、この玉には二度と触れない。『史記』の側にあるのはたった一句、「趙惠文王時,得楚和氏璧」——動詞は「得」の一字だけで、来歴がない。どうやって楚から趙へ渡ったのか、誰の手を経たのか、卞和が泣いたあの石と同じものなのか。二頁はどれも言わない。本篇はそれを明記する——分からない、補わない。
三、趙の朝議
「秦昭王聞之,使人遺趙王書,原以十五城請易璧」。趙王は大将軍の廉頗や大臣たちと謀った。与えれば秦の城は手に入らず欺かれるだけではないか、与えなければ秦の兵が来るのではないか。計は定まらず、宦者令の繆賢が藺相如を推した。相如の見立ては「秦彊而趙弱,不可不許」。王が「璧を取って城をよこさなければどうする」と問うと、相如は、秦が城で璧を求めているのに趙が断れば非は趙にあり、趙が璧を渡して秦が城を渡さなければ非は秦にある、と答えた。そこで約束の言葉が出る——「王必無人,臣願奉璧往使。城入趙而璧留秦;城不入,臣請完璧歸趙」。王に他に人がいなければ、臣が璧を奉じて使いに出ます。城が趙に入れば璧は秦に残し、城が入らなければ璧を無傷で趙に帰してみせます、と。
四、章台——柱を睨む
献上の場面は動作が細かい。「秦王坐章臺見相如,相如奉璧奏秦王。秦王大喜,傳以示美人及左右,左右皆呼萬歳」。相如は秦王に城を払う気がないと見て進み出る——「璧有瑕,請指示王」。王が璧を渡すと、相如は「因持璧卻立,倚柱,怒髮上沖冠」——璧を持ったまま後ろへ退がり、柱にもたれて立ち、怒りで髪が冠を突き上げた。そして言う。臣は、布衣の交わりですら互いに欺かないと存じます、まして大国においては。趙王はこの璧のために五日間斎戒し、書を庭で拝送した。それは「嚴大國之威以修敬」——大国の威を敬い、敬を修めるためである。ところが大王は臣に会うや礼節きわめて倨しく、璧を得ては美人に渡して臣を弄んだ。「臣觀大王無意償趙王城邑,故臣復取璧。大王必欲急臣,臣頭今與璧倶碎於柱矣」——大王に趙の城邑を償う気がないと見たので璧を取り戻した。大王が臣を迫るなら、臣の頭は今この璧とともにこの柱に砕け散る。続いて「相如持其璧睨柱,欲以擊柱」——璧を持ったまま柱を睨み、撃ちつけようとした。
秦王は璧が砕けるのを恐れ、謝って固く請い、有司に図を出させて「指從此以往十五都予趙」と言った。相如はそれが詐りだと量り、条件を出す。和氏の璧は天下に共に伝わる宝であり、趙王は五日斎戒したのだから、「今大王亦宜齋戒五日,設九賓於廷,臣乃敢上璧」。大王も五日斎戒し、廷に九賓を設けられよ、そうしてはじめて璧を上ります、と。秦王はこれを許し、相如を広成の宿に置いた。相如は「乃使其從者衣褐,懷其璧,從徑道亡,歸璧於趙」——従者に褐を着せ、璧を懐に抱かせ、間道から逃がして趙へ帰らせた。
結末も写す。五日後、九賓の礼を設けた秦王の前で、相如は言う——秦は繆公このかた二十余君、堅明の約束を守った者は一人もいない。璧はすでに趙へ帰した。「臣知欺大王之罪當誅,臣請就湯鑊」——大王を欺いた罪は誅に当たると存じます、どうか湯鑊に就かせてください。秦王と群臣は「相視而嘻」——互いに顔を見合わせて笑った。左右が相如を連れて行こうとすると、秦王は、相如を殺しても璧は得られない、と言い、「卒廷見相如,畢禮而歸之」——結局、廷で会い、礼を尽くして帰した。最後に一行、「秦亦不以城予趙,趙亦終不予秦璧」——秦は城を趙に与えず、趙も終に璧を秦に与えなかった。
五、三つの出番を一本の線にしない
二つの材料は同じものではない。『韓非子·和氏』は戦国の議論に置かれた寓話である——卞和の献上、刑、山での痛哭、原石を磨いて宝を得ること、そのすべてが「論寶若此其難」を証明するためにある。『史記·廉頗藺相如列傳』は漢代の史書の叙述である——秦と趙が「和氏の璧」と呼ばれる玉を争い、藺相如がそれを趙へ帰す。二頁に共通するのは一つの名と「楚」の一字だけだ。『史記』は「得楚和氏璧」と言うが、それが卞和の献じたあの石だとは言っていない。だから本篇は三層に分けて書く——卞和の物語(『韓非子』)、趙が玉を「得た」という一句(『史記』)、秦趙の十五城をめぐる争い(『史記』)。「一つの玉の流転史」にはまとめない。
二頁が与えないものも並べておく。璧の寸法、玉質、重さ、どれもない。「十五城」は秦が「請易」で出した値であり、璧の評価額ではない。本篇はそれを換算しない。「價值連城」といった成語の由来も書かない。「誠信」「外交の智慧」のような道徳的評語も書かない。当サイトで佩玉を扱う篇は身につける礼の話であり、問鼎の篇は銅器の話である。この一篇は、一塊の玉がいくつかのテクストで何と呼ばれたかだけを書く。まず「石」と呼ばれ、次に「天下所共傳寶」と呼ばれ、最後の一行は「秦亦不以城予趙,趙亦終不予秦璧」である。三度とも、玉そのものが語ったわけではない。
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参考資料・関連文献
- 《韩非子·和氏》(维基文库本,未与点校本复核) — The whole of the Bian He story in one paragraph: 'a man of Chu, He, got a jade in the rough in the Chu mountains and presented it to King Li. King Li had the jade-cutter look at it; the jade-cutter said: It is a stone. The king took He for a deceiver and cut off his left foot. When King Li died and King Wu came to the throne, He again presented the rough jade; the jade-cutter again said: It is a stone; and his right foot was cut off. When King Wu died and King Wen came to the throne, He clasped the rough jade and wept at the foot of the Chu mountains for three days and three nights, until his tears dried and blood came after them' (楚人和氏得玉璞楚山中……泣盡而繼之以血); the king's question and He's answer ('I do not grieve for the cutting — I grieve that a precious jade is labelled a stone, and a true man is called a deceiver'); and the ending, 'the king had the jade-cutter cut and polish the rough stone and got the treasure from it, and it was named the He family jade' (王乃使玉人理其璞而得寶焉,遂命曰和氏之璧). The rest of the chapter is Han Fei's argument — that a treasure is only judged after two feet are cut, and that men of law and method fare likewise, with Wu Qi and Lord Shang as examples — and that argument is marked as argument here, not as Chu history.
- 《史记》卷八十一〈廉颇蔺相如列传〉(维基文库本,未与点校本复核) — The Qin-Zhao episode, used as a separate layer: 'in the time of King Huiwen of Zhao they got the He family jade of Chu. King Zhao of Qin heard of it and sent a letter offering fifteen cities in exchange' (趙惠文王時,得楚和氏璧……原以十五城請易璧); Lin Xiangru's undertaking, 'if the cities enter Zhao the jade stays in Qin; if not, I ask to return the jade whole to Zhao' (城入趙而璧留秦;城不入,臣請完璧歸趙); the audience at the Zhang terrace, the jade passed round to the beauties, 'the jade has a flaw — let me point it out to Your Majesty', the retreat to the pillar with hair bristling, 'my head will be smashed with the jade against this pillar' (臣頭今與璧倶碎於柱矣), the demand for five days' fasting and nine guests in the court, the servant in coarse clothes carrying the jade home by a side road (使其從者衣褐,懷其璧,從徑道亡,歸璧於趙), and the close, 'Qin never gave the cities to Zhao, and Zhao never gave the jade to Qin' (秦亦不以城予趙,趙亦終不予秦璧). The page marks variant characters with editorial -{…}- brackets (於, 舍, 復, 髮), which are transcription marks and are not quoted.




