一つの文のなかに、二つのものが入っている。七十余万人と、水銀でつくられた河とである。『史記』秦始皇本紀は、始皇の埋葬をこう記す。「始皇初即位、穿治驪山。及并天下、天下徒送詣七十餘萬人、穿三泉、下銅而致椁、宮觀百官奇器珍怪徙臧滿之。令匠作機弩矢、有所穿近者輒射之。以水銀為百川江河大海、機相灌輸、上具天文、下具地理。以人魚膏為燭、度不滅者久之。」——即位したときから驪山を穿ち、天下を併せると天下の刑徒が送られ、三泉を穿ち、銅を下して椁を据え、宮観・百官・奇器・珍怪を運び入れて満たした。匠には機弩矢を作らせ、近づく者があれば射た。水銀を百川江河大海とし、機械で巡らせ、上に天文を、下に地理を具えた。人魚膏を燭として、久しく消えぬようにした、という。

本紀のなかの驪山

このあと、さらに二つの句が続く。二世は、子のない後宮の女たちを外へ出すべきではないと言い、「皆、死に従わしめ、死する者甚だ衆し」とした。埋葬が終わると、匠が機関を漏らすのを恐れて「工匠・臧者を尽く閉じ、復た出づる者なし」とした。そして草木を植えて「山のごとく象らしむ」——土盛りを山に見せかけたのである。これらはすべて本紀の語りのなかにあり、年表や巡遊、刻石と並んでいる。この一節には高さも、周回も、「三泉」の深さも書かれていない。

「七十余万」は本紀に二度現れ、二つは連ねて読まねばならない。三十五年の条に「隱宮徒刑者七十餘萬人、乃分作阿房宮、或作麗山」——刑に処された者七十余万人を、阿房宮の造営と驪山の造営とに分けた、とある。同じ人手が二つの現場に割かれている。埋葬の条には「天下徒送詣七十餘萬人」とある。だからこの数は、第一に累計であり(「始皇初即位、穿治驪山」——即位のときから工事は始まっている)、第二に共有である(少なくとも三十五年の時点では、宮殿の造営と分け合っていた)。七十万人が同時にこの一つの墓で働いていた、と読むことはできない。

劉向の引用

『漢書』楚元王伝(劉向伝)によれば、成帝の御世、朝廷は昌陵を造っていた。劉向はその贅沢を諫める上奏文をたてまつり、秦を反面教師として掲げる。「秦始皇帝葬於驪山之阿、下錮三泉、上崇山墳、其高五十餘丈、周回五里餘、石椁為游館、人膏為燈燭、水銀為江海、黃金為鳧雁。珍寶之臧、機械之變、棺椁之麗、宮館之盛、不可勝原。又多殺宮人、生埋工匠、計以萬數。天下苦其役而反之、驪山之作未成、而周章百萬之師至其下矣。」——秦の始皇帝は驪山の曲がりに葬られ、地下では三泉を錮り、地上には山のような墳丘を築いた。その高さは五十余丈、周回は五里余り。石の椁を遊館とし、人の脂を灯燭とし、水銀を江海とし、黄金を鴨や雁に象った。隠した珍宝、機関の工夫、棺と椁の華やかさ、宮館の壮麗さは、書き尽くすことができない。さらに多くの宮人を殺し、工匠を生き埋めにし、その数は万の単位で数えられた。天下はその労役に苦しんで背き、驪山の造営が終わらぬうちに、周章の百万の軍がその麓に達した。この一節の前に、劉向はすでに孔子と古代の質素な葬りを、厚葬の対極として置いている。そのあとは陵が荒らされた話が続く。項籍が宮室を焼き、羊を追っていた牧童が火を落として葬られた椁を焼いた、と。

この一節は、どこで使われているかが大事である。劉向は発見を報告しているのではない。論じているのだ。彼の結論は「徳厚き者は葬り薄く、知深き者は葬り微し」——徳が厚い者ほど葬りは薄く、知が深い者ほど墓は質素だというのであり、徳が薄ければ丘は高く、その墓は「発掘必ず速やかならん」と続く。そしてすぐさま、成帝自身の昌陵へ話を移す。秦の陵を華々しく描けば描くほど、厚葬は掘り返されるという自らの論が強くなる。秦の滅びも厚葬のせいだと、彼は言う。それは彼の主張であって、史実の判定ではない。この数句を引くということは、その目的ごと引き受けることだ。劉向は成帝に語りかけている。

数字と記述

二つの数字は、同じ層にはない。「七十余万」は本紀が伝える労役者の数で、累計であり、しかも二つの現場に分かれている。「計以万数」は、劉向が言う、殺された宮人と生き埋めにされた工匠の数——死亡者数であり、しかも推量である。両者は足せないし、小さいほうで大きいほうを割り出すこともできない。まして、同時に何人が現場にいたかを計算することはできない。どちらのページにも、工程表も、人員の名簿もない。

水銀の句も同じ問題を抱えている。「水銀をもって百川江河大海と為し、機もって相灌輸す」は本紀の記述であり、劉向は「水銀もて江海と為す」と書く。どちらも言葉であって、出土したものではない。そのような水銀の河が墓のなかにあるかどうかは、どちらのページも示していない。この文章は「実証された」とは書かない。「高さ五十余丈、周回五里有余」も同じく劉向の見積もりであって、測量の数値ではない。

二種類のページ

一つは本紀で、年ごとに記す。もう一つは上奏文で、説得のために組み立てられている。本紀には伝説的な細部がある——人魚膏の燭、「機弩矢」で近づく者を射ること。上奏文には比較と結論がある——厚葬は必ず暴かれる。引用には、誰が言ったのか、何のために言ったのかを添えねばならない。一方は史官が記し、他方は劉向が皇帝に語っている。この区別なしに並べて読むと、諫めの誇張が建物の寸法になってしまう。

書けるのは、この二つの書物が驪山をどう描いたかである。書けないのは、考古学が水銀の河を実証したこと、七十万人が同時に働いていたこと、墓の内部が本紀のとおりであること。最初の一つは言葉を物証に変え、あとの二つは合計を勤務表に変えてしまう。同じ文が、一方の書では記述として、他方の書では証拠として働きうるのも、同じ理由からだ。

ここにないもの

陵園の配置図も、玄室の寸法も、工匠の名簿も、死亡者の統計も、造営の工期もない。水銀、人魚膏、機弩矢について、実物の記録も、痕跡もない。「死に従う」ことを強いられた宮人の正確な数もなく、始皇の死後にこの工事が止まったかどうかも書かれていない。これらのページは記述し、論じる。測量はしない。だからこの文章が書くのは、二つの書物が一つの墓をどう語ったかであって、その墓についての考古報告ではない。

この二つのページのなかで、驪山は二つの別のものだ。本紀では、それは「上に天文を具し、下に地理を具す」地下の世界であり、天下を統一したばかりの一人の男を収めるために造られた。諫書では、それは「厚葬は必ず暴かれる」という出来合いの教訓であり、別の皇帝が真似しないようにするために使われる。同じ一つの墳丘、二つの書き方——どちらを読むにも、まず問うべきは、誰が、誰に向かって語っているのかである。

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参考資料・関連文献

  1. 司马迁《史记》卷六·秦始皇本纪(西汉;维基文库本,未与点校本复核) — The chronicle's account of the tomb. In the thirty-fifth year it says that 'more than seven hundred thousand convicts were set to work on the Afang Palace or at Lishan' (隱宮徒刑者七十餘萬人,乃分作阿房宮,或作麗山); at the burial it says that 'from the beginning of his reign the First Emperor had cut and governed Lishan, and when he had united the world, convicts were sent there from all under heaven, more than seven hundred thousand of them' (天下徒送詣七十餘萬人), who 'cut through three springs, poured bronze and set the coffin', filled the palace halls and offices with wonders, set crossbow triggers to shoot at anyone who approached, 'made rivers, the Yangtze, the Yellow River and the great seas out of quicksilver, mechanically circulated', 'above they set the heavens, below the earth', and used 'fish-oil for candles'. It adds that the Second Emperor had the childless women of the palace follow the dead, 'and many died', and that the artisans who knew the machinery were shut inside the tomb 'and none came out again', the mound then planted to look like a hill. It gives no plan, no dimensions and no duration of the work.
  2. 班固《汉书》卷三十六·楚元王传(刘向传,东汉;维基文库本,未与点校本复核) — A memorial, not a survey. Under Emperor Cheng the court was building the Changling tomb, and Liu Xiang submitted a remonstrance against the extravagance; to argue it he holds up Qin: 'the First Emperor of Qin was buried in the fold of Lishan: below he sealed the three springs, above he raised a mountain mound more than fifty zhang high and more than five li around; stone coffins made a travelling palace, human fat the lamps, quicksilver the rivers and seas, gold the wild ducks and geese. Of the treasures hidden, the machinery's ingenuity, the beauty of coffin and outer coffin, the splendour of palaces and halls, one cannot finish the account. He also killed many palace women and buried artisans alive, reckoned by the ten thousand. All under heaven suffered his corvée and turned against him; the work at Lishan was not finished when Zhou Zhang's army of a million reached its foot' (驪山之作未成,而周章百萬之師至其下矣). Liu Xiang then traces the desecrations — Xiang Yu burning the buildings, a shepherd's fire in the tomb — and draws the moral that 'the thicker the virtue, the thinner the burial', using Qin to argue that Emperor Cheng should stop building Changling. The figures are his, given in the course of an argument.