一句でいえば、「築長城,因地形,用制險塞,起臨洮,至遼東,延袤萬餘里」——長城を築き、地形に因り、険を以て塞を制し、臨洮より起こり、遼東に至るまで、延袤(えんぽう)一万里余、とある。出典は『史記』蒙恬列伝である。里数は記されたままに置き、キロメートルにもメートルにも換算しない。本稿が扱うのは長城そのものと、その造り方だけである。関所も、馳道・直道も別の題目であり、ここでは線を引くにとどめて開かない。孟姜女の話は後世の伝説で、二篇のどちらにも載っていない。ここでも追わない。
一句の中の造り方と範囲
この一句を前後の文脈に戻す。「秦已并天下……暴師於外十餘年,居上郡」——秦すでに天下を并せ、蒙恬をして三十万の衆を将い、北のかた戎狄を逐わしめて河南の地を収めしむ。長城を築くに、地形に因り、険を以て塞を制し、臨洮より起こり、遼東に至るまで、延袤一万余里。ここにおいて河を渡り、陽山に拠り、逶蛇して北す。師を外に暴すこと十余年、上郡に居る、と。三十万の衆とは北へ逐った軍のことで、築城の役夫を指すものではない。河南の地を収め、壁を築くこと。「因地形,用制險塞」は原則である——地形に従い、自然の険しいところを塞とする。起点は臨洮、終点は遼東、「延袤萬餘里」は記されたまま。城壁がどれほど高く厚かったか、どんな土を用いたか、何層に突き固めたか、土量がどれほどか——この頁には、どれもない。
『漢書』匈奴伝は別の版を出す。やり方を三つ多く記している。「因邊山險,塹谿谷,可繕者繕之……」——辺山の険に因り、谿谷を穿ち、繕うべきものはこれを繕う。この「可繕者繕之」の四字が肝心で、古い壁がそのまま使われたことを示す。同じ段には付随する事業も並ぶ。「因河為塞,築四十四縣城臨河,徙適戍以充之」——河を以て塞とし、河のほとりに四十四の県城を築き、罪徒を移してこれを満たす、と。「又度河據陽山北假中」——さらに河を渡り、陽山の北假の中に拠る。二つの版は並べて置き、一つに溶かさない。
長城は始皇帝から始まらない
『漢書』はまず、もっと古い辺壁を三つ記す。秦の昭王のとき、秦は隴西・北地・上郡を有し、「築長城以距胡」——胡を防ぐために長城を築いた。趙の武霊王は「變俗胡服,習騎射,北破林胡、樓煩,自代並陰山下至高闕為塞」——習俗を変えて胡服を着、騎射を習い、北のかた林胡・楼煩を破り、代から陰山の麓を経て高闕に至るまでを塞とした。雲中・雁門・代の郡を置いた。燕の将軍秦開が東胡を破ったのち、「燕亦築長城,自造陽至襄平」——燕もまた長城を築き、造陽から襄平に至った。上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東の郡を置いて胡に当たらせた。当時は「冠帶戰國七,而三國邊於匈奴」——冠帯の戦国七国のうち、三国が匈奴と境を接していた。始皇帝の代になって、はじめて「因邊山險……可繕者繕之」が出てくる。
だから「築長城」はゼロからの事業ではない。秦・趙・燕にそれぞれ古い壁があり、始皇帝の一道はその上に「可繕者繕之」——繕えるものを繕う、というやり方で築かれた。どの区間が新築でどこが修繕か、二篇は分けて書いていない。壁をどう繋いだか、どこで繋いだかも書いていない。本稿も区間を割り振らない。
人と代価
人の数は一つしかない。「將三十萬眾北逐戎狄」——三十万の衆を将いて北のかた戎狄を逐う。この三十万の衆は北へ逐った軍であり、築城に動いた人数を指すものではない。築城にどれだけの役夫が動いたか、どれだけの土量か、どれだけ死んだか、二篇はどちらも書かない。本稿も施工技術を補わず、土量も補わない。
二篇にはそれぞれ一句ずつ評がある。どちらも誰の言葉か示さねばならない。蒙恬は死の前に言う。「起臨洮屬之遼東,城塹萬餘里,此其中不能無絕地脈哉?此乃恬之罪也」——臨洮より起こりこれを遼東に属せしめ、城と堀と一万余里、その中に地脈を絶つところなからんや。これは恬の罪なり、と。これは彼自身の言葉であり、自分に科した罪名であって、事実の判定ではない。司馬遷は篇末に書く。自分は北辺へ行き、直道から帰り、蒙恬が秦のために築いた長城と亭障、山を切り開き谷を埋めたさま、直道を通したさまを見た、と。そして「固輕百姓力矣」——まことに百姓の力を軽んじたものである。この一句は史家の評断であって、統計の数字ではない。
その後の壁
『漢書』は壁の後日談も記す。蒙恬が死ぬと、「諸秦所徙適邊者皆復去,於是匈奴得寬,復稍度河南與中國界於故塞」——秦が辺に移した者たちはみな去り、匈奴はゆとりを得て、しだいに河を南へ渡り、中国と故塞を境とした。武帝のときには、「復繕故秦時蒙恬所為塞,因河而為固」——秦の蒙恬が築いた塞をふたたび繕い、河に因って固めとした。壁は捨てられ、また修された。壁体がその後どうなったかの細部は二篇になく、長城が後世どんな姿になったかも語らない。
二篇が与えないもの
二篇はどちらも、城壁の高さや厚さ、版築のやり方、烽燧と障塞の配置を与えない。土量も、役夫の数も、死者の数も、四十四の県城にどれだけの戍卒を移したかも与えない。どこが新築でどこが修繕かも分けない。発掘調査も測量も、遺跡の現状も材料にない。里数は記されたままに置き、キロメートルに換算しない。長城を中華民族の象徴とするような現代の言い方はしない。孟姜女は一句だけ、線を引くために触れる——後世の伝説であり、二篇には載っていない。
与えないものはほかにもある。長城と直道がどう噛み合ったか(二篇は二つの事業を並べて記すだけで、関係を語らない)、秦から漢の修繕までの空白、関所の形制。書けるのはこれだけである。原則(地形に因る、険を以て塞とする、繕うべきものを繕う)、範囲(臨洮から遼東まで、一万余里)、付随する事業(河を以て塞とする、四十四の県城、罪人を移して戍らせること)、人(三十万の衆を北へ)、蒙恬が自分を責めた一句、司馬遷の評一句。
一方に造り方があり、一方に評がある。「因地形,用制險塞」は地形に沿ってどう線を引くかを語り、「固輕百姓力矣」はそれがどれほどの代価だったかを語る。二句は同じ書の、一篇の列伝を隔てたところにある。壁そのものがどんな姿だったかは、二篇のどちらも言わない。
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参考資料・関連文献
- 《史记》卷八十八·蒙恬列传(西汉司马迁撰;维基文库本,页面白文无注,未与中华书局点校本复核) — Meng Tian's biography: after Qin united the realm, 300,000 men were sent north against the Rong and Di and the land south of the bend was taken; 'the wall was built following the ground, using the passes as defences, from Lintao to Liaodong, stretching more than ten thousand li'; then the Yellow River was crossed, the Yang mountains occupied, and the army kept in the field more than ten years at Shang commandery. The same juan records the straight road from Jiuyuan to Ganquan, 'cutting mountains and filling valleys, 1,800 li', unfinished; Meng Tian's last words, that from Lintao to Liaodong the wall and moat ran more than ten thousand li and must somewhere have cut the earth's veins; and Sima Qian's own judgement after travelling the northern frontier, that the wall, the watchtowers and the straight road 'truly made light of the people's strength'.
- 《汉书》卷九十四上·匈奴传(东汉班固撰;维基文库本,页面白文无注,未与中华书局点校本复核) — The Xiongnu treatise gives the earlier walls — Qin under King Zhao 'building a long wall to keep out the Hu', Zhao Wuling from Dai along the Yin mountains to Gaoque, Yan from Zaoyang to Xiangping, each with commanderies set up behind it — and then the First Emperor's work: taking the land south of the bend, 'making the river the defence, building forty-four county towns on the river and moving convicts to fill them', opening the straight road from Jiuyuan to Yunyang, and 'following the mountain barriers, cutting the valleys, repairing what could be repaired, from Lintao to Liaodong more than ten thousand li'. It also records that after Meng Tian's death the settlers left, the Xiongnu recrossed the river, and that under Emperor Wu the Han 'again repaired the old Qin defences and made the river their stronghold'.




