まず一つの徴発記録から。恵帝三年の春——「長安六百里内の男女十四万六千人を発して長安の城を築かしめ、三十日にして罷む」——長安周辺六百里から徴発された男女十四万六千人、城を築くこと三十日で、家に帰された。同年六月にはまた諸侯王・列侯の徒隷二万人を徴発した。この一隊は「常役」である。二年後にもう一度——「また長安六百里内の男女十四万五千人を発して長安の城を築かしめ、三十日にして罷む」。五年九月になると、「長安の城成る」。これは一隊の工匠ではない。一巡また一巡の民夫である。

三度の徴発

線をつなげてみる。恵帝元年正月に「長安に城を築く」で着工。三年春に十四万六千人、三十日。三年六月に徒隷二万人の常役。五年春に十四万五千人、三十日。五年九月に城が成り、皇帝は民に爵を賜い、一戸ごとに一級。数字は正確に読まねばならない。二度の十四万級の徴発はいずれも「六百里内の男女」であり、徭役の範囲であって専門の匠ではない。「三十日にして罷む」は一巡の工期であって、城全体が九十日でできたという意味ではない。そのあいだにも二万人の常役の徒隷が働いていた。史書が与えるのは徴発と罷遣だけで、土量も工日も与えない。それらは何も残っていない。

一つの版築の土壁

壁をどう築いたかは、考古学が一言で言う。城壁は土を層ごとに突き固めて築かれている、と。実測された四辺は、東壁六〇〇〇メートル、南壁七六〇〇メートル、西壁四九〇〇メートル、北壁七二〇〇メートル、平面はほぼ方形で、遺跡の範囲は約三十六平方キロメートル。断っておく。これは遺跡の実測をまとめた数字であり、原壁が完全だったときの全長ではない。文献には別の一組の寸法がある。『三輔黄図』によれば、城は「高さ三丈五尺、下の闊さ一丈五尺、上の闊さ九尺、雉の高さ三坂、周回六十五里」。通行の換算では、三丈五尺は約八メートル、六十五里は約二十七キロメートル——これはあくまでおよその数であり、原文のデータではない。

文献とスコップが食い違うところが、実はよい材料である。文献は周囲六十五里と言い、考古の四辺を合計すると約二十五・七キロメートル。『漢旧儀』はさらに「経緯各々三十二里十八歩、地九百七十三頃」と、第三の算法を出す。三つを並べ、無理に調和させない——今回の回では説明を確認できなかった。「斗城」については、文献は「城の南は南斗の形、北は北斗の形」と言い、人は漢の京城を斗城と呼ぶ、とするが、これは後人がそう形容したもので、考古の平面はほぼ方形であり、星象に合わせて設計したとは言えない。壁の実測の高さ、厚さ、夯層の厚さ、土量、工日は、一つもない。夯築の工程(土を取る、運ぶ、突く、検査する)も材料がなく、後世のやり方で補うことはしない。

十二の門と城外の壕

十二の門の名は『三輔黄図』による。東は南から霸城門(民は青門と呼ぶ)、第二は清明門、北の端は宣平門(東都門)。南は東から覆盎門(杜門)、第二は安門(鼎路門)、第三は西安門(便門)。西は南から章城門、第二は直城門、北の端は雍門。北は東から洛城門(高門)、第二は厨城門、西の端は横門。考古の側は、各面に三門、合わせて十二門、各門に三つの門道があり、一つの門道の幅は約六メートル——注意すべきは、六メートルは一本の門道の幅であり、城門全体の幅ではない。城壁の外には一周の壕がある。これはまさに『三輔決録』の「十二門三塗洞辟」に対応する。一九五七年に霸城・西安・直城・宣平の四門が発掘された。門には門候があり、「時を候い、謹んで啓閉す」——城門は時刻で開け閉めされた。

壁の外には壕がある。『三輔黄図』によれば、城の下に池が周りを繞り、「広さ三丈、深さ二丈」、石橋は各々六丈、街と相直(まっすぐ向かい合)う。考古は言う。城壁の外に一周の壕が巡り、城内の街路の両側の水路は「城門の下の涵洞を経て城外の壕へ排水する」。本篇はここまでである——排水は城門の涵洞のこの一句だけを残し、渠道も水利権も漕運もこの篇にはない。

城内はどう分かれていたか

八本の大街が城内を十一の区に分ける。中部と南部は未央宮(武庫およびその南の「東第」宅地区を含む)、長楽宮、桂宮、北宮、明光宮で、五区を占める。宮城と高等級の宅第を合わせると、全城面積の三分の二以上を占める。一般の民は主に城の東北部、すなわち宣平門大街の北に住み、西北部は手工業作坊と市場で、三区を占める。文献は「八街九陌」と言い、考古は八本の大街を数え、これは合う。文献は「九市」と言うが、考古が確認したのは「記録によれば東西二市があった」ということだけで、位置もまだ探査を待つ。明光宮の位置も待探である。これらはいずれも考古隊が探査に基づいて復原した判断で、原文の言葉は「可能」である。

もう一条、境界を釘で打っておく。京兆尹の元始二年の「戸十九万五千七百二、口六十八万二千四百六十八」は十二県を管轄し、長安はそのうちの一県にすぎない。この六十八万の口を長安城内の人口と見てはならず、まして三十六平方キロメートルで割って密度を出してはならない。本文がこれを挙げるのは、長安の所在する郡の戸口の背景としてだけである。

文献とスコップ

一つの壁に、二種の材料。文献は形制を与える——高さ三丈五尺、下の闊さ一丈五尺、上の闊さ九尺、周回六十五里、門の名、門候、池は広さ三丈・深さ二丈。スコップは長さを与える——東六千、南七千六、西四千九、北七千二、面積約三十六平方キロメートル、各門に三門道、道幅約六メートル。両者は合わない。そしてそこが城市史のいちばん面白いところである。缺口も並べて出す——城壁の実測の高さと厚さ、夯層の厚さ、土量、工日、城門の進深、街路の幅は、すべてない。正式な発掘報告も今回の回では読める本を確認できなかった。数字には「考古実測/考古隊が考える」とだけ付した。

参考資料・関連文献

  1. 班固《汉书》卷二·惠帝纪(维基文库) — The building record: in the first month of the first year the wall of Chang'an was begun; in the spring of the third year 146,000 men and women from within six hundred li were levied to build it, dismissed after thirty days; in the sixth month 20,000 retainers of the kings and marquises were sent for permanent service; in the spring of the fifth year another 145,000 were levied, again for thirty days; in the ninth month the wall was complete and the people were given a grade of rank. Levies, not hired craftsmen.
  2. 佚名《三辅黄图》卷一·汉长安故城、都城十二门(后人辑录汉事;维基文库) — The literary dimensions, by a later compiler: the wall 3 zhang 5 chi high, 1 zhang 5 chi wide at the base and 9 chi at the top, with parapets, 65 li in circuit; the moat around it 3 zhang wide and 2 zhang deep, stone bridges 6 zhang wide facing the streets; the names of the twelve gates and Wang Mang's renamings; 'each gate had a gate-warden to watch the hours and open and shut carefully'; 'the twelve gates open in three passages'; the remark that the southern wall was shaped like the Southern Dipper and the northern like the Northern Dipper, hence 'Dipper City'. Not a Han primary text: the Siku editors dated its compiler after the Tang emperor Suzong.
  3. 刘振东〈汉都长安的考古历程——纪念汉长安城遗址考古65年〉(中国社会科学网-中国社会科学报,2021-09-27) — Archaeological survey article, not a final excavation report: the wall built of earth rammed in layers; east wall 6000 m, south 7600 m, west 4900 m, north 7200 m, area about 36 sq km; three gates on each side, twelve in all, each with three passages about 6 m wide; a moat encircling the wall; street-side drains discharging through culverts under the gates into the moat; eight straight avenues dividing the interior into eleven zones, palaces and high-ranking residences taking more than two thirds of the area, commoners mainly in the north-east, workshops and markets in the north-west; four gates excavated in 1957; the positions of the Mingguang Palace and the east and west markets still to be found.
  4. 班固《汉书》卷二十八上·地理志(维基文库) — The census background for the capital region: Jingzhao Yin in the second year of Yuanshi had 195,702 households and 682,468 persons in twelve counties. A commandery-level figure, not the population inside the city wall, and not to be divided by the city area.