元封七年の詔には七字がある。「其以七年為元年」——その年を元年とせよ、と。年号はこうして替わった。そしてこの改暦の核心は、『漢書』ではただ一句である。「法,一月之日二十九日八十一分日之四十三」——法、一月の日は二十九日と八十一分日の四十三。あとはすべて過程だ。誰に問い、何を試し、どの二つの器を立て、誰の法が廃され、二十七年後に誰がまだ争っていたか。
改暦以前:秦の正朔を襲う
『漢書』は一通の報告と一道の詔から説き起こす。元封七年、「漢興百二歳矣」——漢が興って百二年。大中大夫の公孫卿・壺遂・太史令の司馬遷らが「曆紀壞廢,宜改正朔」——暦紀は壊れ廃れた、正朔を改むべきだ、と言った。天子は御史大夫の兒寛に博士らと共に議させ、博士らの答えは原則だった。「帝王必改正朔,易服色,所以明受命於天也」——帝王は必ず正朔を改め、服色を易え、天の命を受けたことを明らかにする、と。そのあとに詔が来る。まず認めて、それから命じる。「乃者有司言曆未定,廣延宣問,以考星度,未能讎也……其以七年為元年」——このところ有司が暦は未だ定まらぬと言う。広く問いを延べ、星度を考査したが、まだ突き合わせることができなかった……その七年を元年とせよ、と。この詔に何が無いかに注意せよ。月長も無い、歳実も無い、数字が一つも無い。
『史記』は同じ事をさらに前へ引く。冒頭は一句の原理である。「王者易姓受命,必慎始初,改正朔,易服色,推本天元,順承厥意」——王が姓を改め天命を受けるには、必ず始めを慎み、正朔を改め、服色を易え、天元に本づき、その意を順く、と。続いて、改められなかった歴史が来る。漢が興り、自ら水徳を得たと思い、「故襲秦正朔服色」——ゆえに秦の正朔と服色をそのまま受け継いだ。文帝の時、魯人の公孫臣が終始五徳をもって上書して改めることを請うたが、丞相の張蒼は非なりとして退けた。のち新垣平が望気をもって進言し、乱を起こして誅され、文帝は「廢不復問」——取りやめて二度と問わなかった。『史記』の書き方では、改暦は数十年の遅延のあとの締めくくりである。
三正:正月はどの月か
「正朔を改む」とは何を改めるのか、『史記』本文に一句で明快に書いてある。「夏正以正月,殷正以十二月,周正以十一月。蓋三王之正若循環,窮則反本。天下有道,則不失紀序;無道,則正朔不行於諸侯」——夏の正は正月を以てし、殷の正は十二月を以てし、周の正は十一月を以てす。三王の正は循環のごとく、窮まれば本に反る。天下に道あれば紀序を失わず、道なければ正朔は諸侯に行なわれない、と。三代の正月はそれぞれ正月・十二月・十一月であり、用いているのは月の順序であって今日の日付ではない。この篇も月序だけを用い、西暦に換算しない。
新暦がどちらを取ったかも、一句で書く。「然後日辰之度與夏正同」——しかる後に日辰の度は夏正と同じ。夏正に戻る、それがこの改暦の方向である。夏正のその月が今日の何月に当たるかは、二頁とも言わない。秦の正朔がどの月かも、二頁とも言わず、漢初に「秦を襲う」とだけ言う。
最初の一班は算えなかった
最初の任命は、名の列と器の一式である。詔は「遂詔卿、遂、遷與侍郎尊、大典星射姓等議造漢曆」——卿・遂・遷、侍郎尊、大典星射姓らに漢の暦を議して作らせた。方法は一句で「乃定東西,立晷儀,下漏刻,以追二十八宿相距於四方,舉終以定朔晦分至,躔離弦望」——東西を定め、晷儀を立て、漏刻を下ろし、二十八宿の四方の相隔たりを追い、終わりを挙げて朔晦・分至・躔離・弦望を定める、と。そして失敗の一句が来る。「姓等奏不能為算,願募治曆者,更造密度,各自增減,以造漢太初曆」——射姓らは算をなすこと能わずと奏し、治暦者を募り、さらに密なる度を造り、各々増減して漢の太初暦を造らんことを願う、と。最初の一班は算えることができず、そこで広く募ることにした。改暦は一発で成功したのではなく、まず負けを認め、それから人を探したのである。
二十余人:名簿と分担
第二班はあのしばしば引かれる名簿である。「乃選治曆鄧平及長樂司馬可、酒泉候宜君、侍郎尊及與民間治曆者,凡二十餘人,方士唐都、巴郡落下閎與焉。都分天部,而閎運算轉曆」——治暦の鄧平、長楽司馬の可、酒泉候の宜君、侍郎尊、および民間の治暦者を選び、凡そ二十余人、方士の唐都と巴郡の落下閎がこれに加わった。唐都は天部を分かち、落下閎は運算して暦を転じた。人数は「二十余人」と照録し、確数は与えない。名簿には官もあり、辺地の小吏もあり、「民間の治暦者」もいる。「遷」は一般に司馬遷とされるが、本頁はただ「遷」の一字を書くのみ。分担の二句も具体的である。唐都は天区を分かち、落下閎は数字を推す——一人は天を区切り、一人は数を推す。
一句の暦法と、終わらない論争
定まった法は分数であって小数ではない。「法,一月之日二十九日八十一分日之四十三」——法、一月の日は二十九日と八十一分日の四十三。この篇は小数化せず、いかなる「月長」の現代値も逆算しない。分母がどこから来たかは、同じ頁が自前の説を出す。「其法以律起曆,曰:律容一龠,積八十一寸,則一日之分也」——その法は律を以て暦を起こす。律は一龠を容れ、積八十一寸、それが一日の分である、と。暦の名もここから来る。「鄧平所造八十一分律曆」である。
同じ改暦のなかで二つの算法が争っており、どちらを選ぶかの理由が実に即して書かれている。「先藉半日,名曰陽曆;不藉,名曰陰曆……平曰:陽曆朔皆先旦月生,以朝諸侯王群臣便」——まず半日を藉れば陽暦、藉らねば陰暦。平が言うには、陽暦は朔がみな夜明け前に生じ、諸侯王群臣が朝見するのに便である、と。陽暦を採ったのは、朔が黎明の前に生じるから、諸侯王群臣の朝見に都合がよかったからだ。続いて裁決と再検査が来る。「乃詔遷用鄧平所造八十一分律曆,罷廢尤疏遠者十七家」——司馬遷に命じて鄧平の八十一分律暦を用い、最もかけ離れた十七家を廃させた。宦者の淳于陵渠が太初暦の晦朔弦望を覆勘し、「皆最密,日月如合璧,五星如連珠」——最も精密で、日月は合璧のごとく、五星は連珠のごとし。これは賛辞であり、賛辞と明記して照録する。鄧平はこれによって太史丞となった。
『史記』が与えるのは別の組であり、別の組を欠いてもいる。鄧平もなく、「二十余人」もなく、書中に「八十一分」という語は一度も出ない。同じ詔の別の措辞がある——「其更以七年為太初元年」。年名は「焉逢攝提格」、月名は「畢聚」、日は甲子を得、夜半朔旦冬至——『漢書』の同処は「閼逢攝提格」と作り、用字が異なるので両方を存す。さらに一つの表があり、「曆術甲子篇」と題して大余小余を列ねる。「大餘者,日也。小餘者,月也」。表はここまでで、数は換算しない。論争も終わっていない。二十七年後の元鳳三年(元封とは別の元号)、太史令の張寿王が上書して「今陰陽不調,宜更曆之過也」と言い、主暦使者の鮮于妄人が詰問したが、彼は服さなかった。麻光ら二十余人が日月晦朔弦望・八節二十四気を雑候し、参校すること凡そ十一家、最後に太初暦が第一であった。二頁とも与えないのは、観測記録、誤差、この暦がいつまで行われたかである。
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参考資料・関連文献
- 班固《汉书》卷二十一〈律历志上〉(维基文库本,未与点校本复核) — The reform in order. In Yuanfeng 7, 'a hundred and two years after Han arose', Gongsun Qing, Hu Sui and the grand astrologer Sima Qian say the calendar record is ruined and the first month should be corrected; the scholars argue that a king must 'correct the first month and change the colours' to show he has the mandate; the edict admits the star measures could not be matched and ends 'make the seventh year the first year' (其以七年為元年). The first commission — Qing, Sui, Qian, the court gentleman Zun and the grand astrologer She Xing — sets up gnomon and water clock, then reports it 'could not do the calculations' (不能為算) and asks to recruit others. The second team: Deng Ping, a Ke of Changle, Yi Jun of Jiuquan, the court gentleman Zun and calendar men from among the people, 'twenty-odd in all', with Tang Du dividing the sky and Luoxia Hong turning the calculations. The rule adopted is one line: 'one month is twenty-nine days and forty-three eighty-firsts of a day' (一月之日二十九日八十一分日之四十三), with the denominator explained by 'the capacity of one yue is eighty-one cun, and that is the division of one day'. The yang and yin calendars differ by borrowing half a day, and the yang is chosen because its new moon rises before dawn, 'convenient for the marquises, kings and ministers to appear at court'. Seventeen schools are abolished, a eunuch re-checks the result as 'the closest', and Deng Ping is made assistant to the grand astrologer. Twenty-seven years later Zhang Shou Wang is still disputing it.
- 司马迁《史记》卷二十六〈历书〉(维基文库本,未与点校本复核) — A different account, longer in principle and shorter in personnel. It opens with the rule that a new dynasty 'must be careful of the beginning, correct the first month, change the colours, and trace back to the celestial origin' (改正朔,易服色,推本天元); recalls that Han 'carried on Qin's first month and colours' (襲秦正朔服色); that under Wendi Gongsun Chen's proposal was dismissed by Zhang Cang and Xin Yuan Ping's ended in rebellion, after which the matter was dropped. It states the three first months in full: 'the Xia took the first month, the Yin the twelfth, the Zhou the eleventh; the first months of the three kings are like a cycle' (夏正以正月,殷正以十二月,周正以十一月). After Tang Du and Luoxia Hong, 'the degrees of the sun and the day were the same as the Xia first month'; the edict then reads 'make the seventh year the first year of Taichu' (其更以七年為太初元年), with the year name Yanfeng Tige, month name Biju, day jiazi, midnight, new moon at dawn, winter solstice — followed by the Ganzhi Sequence table of great and small remainders, 'the great remainder is the day, the small remainder is the month'. The Shiji has no Deng Ping, no twenty-odd men, and never uses the phrase 'eighty-one parts'.




