史記は一句だけである。「上令鼂錯衣朝衣斬東市」――皇帝が命じて、鼂錯に朝衣を着せたまま東市で斬らせた。文は衣服のところで止まる。官服を剥いでから殺したのではなく、あの朝衣を着たまま死んだ。裁判と清算の違いは、この細部にある。
四字の人物
史記はこう始まる。「鼂錯者,潁川人也,學申商刑名於軹張恢先所」――鼂錯は潁川の人、申・商の刑名を軹の張恢のところで学んだ。漢書は「先」のところを「生」に作る。一字の違いで、ここでは両方を並べる。「錯為人陗直刻深」――人となりは陗直刻深、けわしくまっすぐで、きびしく深い。漢書は「陗」を「峭」に作る。どちらの頁もこの四字を解かない。彼は『尚書』を学びに遣られた。「天下無治尚書者,獨聞濟南伏生故秦博士……年九十餘」――天下に『尚書』を治める者がなく、ただ聞く、済南の伏生はもとの秦の博士で、年九十余りと。漢書は「無」を「亡」に、「濟南」を「齊」に作る。「受尚書伏生所」から戻ると、太子に気に入られた。「太子家號曰」「智囊」――太子の家では「智囊」、知恵袋と呼んだ。
文帝のとき、彼は何度も上書した。「數上書孝文時,言削諸侯事」――たびたび孝文の時に上書し、諸侯を削ることを言った。史記は「書數十上」、漢書は「書凡三十篇」に作る。二つの数はそのまま並べる。文帝は用いなかったが、「奇其材」――その才を奇とした。敵も作った。「袁盎諸大功臣多不好錯」――袁盎ら大功臣の多くは錯を好まなかった。漢書は「爰盎」に作る。同じ一人、二頁二つの書き方で、本稿は各頁に従う。
彼が最初に倒したのは丞相の申屠嘉である。内史府は太上廟の壖垣の内にあり、門が東へ開いていて不便だった。そこで「錯乃穿兩門南出,鑿廟壖垣」――南へ二つの門を穿ち、廟の壖垣を鑿った(漢書は「穿門南出」に作り、垣を「堧」に作る)。丞相は「欲因此過為奏請誅錯」――この過ちに乗じて奏し、錯を誅することを請おうとした。皇帝は「此非廟垣,乃壖中垣,不致於法」――これは廟の垣ではなく壖の中の垣であり、法は及ばない、と言い、丞相は謝した。罷朝ののち、丞相は怒って言った。「吾當先斬以聞,乃先請,為兒所賣,固誤」――まさに先に斬って聞かせ、しかるのち請うべきだった。先に請うたばかりに、小僧に売られた。わが誤りである。漢書はこの一句に「為兒所賣」を欠き、「乃先請,固誤」に作る。「丞相遂發病死」「錯以此愈貴」――丞相はやがて発病して死に、錯はこれによってますます貴くなった。
「固也」――そうだ。そうでなければ天子は尊からず、宗廟は安からず
景帝が即位すると、彼は御史大夫に進み、上奏した。「請諸侯之罪過,削其地,收其枝郡」――諸侯の罪過を挙げてその地を削り、その枝郡を収める。漢書は「枝郡」を「支郡」に作る。奏は公卿・列侯・宗室の集議にかけられ、「莫敢難」――誰も難じる者がなく、「獨竇嬰爭之」――ただ竇嬰だけが争った。これ以来「與錯有卻」(漢書は「繇此與錯有隙」)。彼はまた三十章の法令を改めた。「錯所更令三十章,諸侯皆諠譁疾鼂錯」――錯が改めた令は三十章、諸侯はみな諠譁して鼂錯を疾んだ(漢書は「諸侯讙譁」)。
そして父が潁川から来た。史記の問いはこうである。「侵削諸侯,別疏人骨肉,人口議多怨公者,何也」――諸侯を侵削し、人々の骨肉を別ち疏くし、人口に議して公を怨む者が多いのは、なぜか。漢書は「疏人骨肉」「口讓多怨,公何為也」に作る。息子の答えは一篇の骨である。「固也。不如此,天子不尊,宗廟不安」――そうだ。こうでなければ、天子は尊くなく、宗廟は安くない。父は言う。「劉氏安矣,而鼂氏危矣,吾去公歸矣」――劉氏は安く、鼂氏は危うい。私はあなたのもとを去って帰る(漢書は「晁氏危」)。「遂飲藥死」,そして「吾不忍見禍及吾身」――我が身に禍の及ぶのを見るに忍びない(漢書は「禍逮身」)。間隔は両頁とも記す。「死十餘日,吳楚七國果反,以誅錯為名」――死して十余日、吳楚七国は果たして反し、錯を誅するを名とした(漢書は「後十餘日……俱反」)。
人払い
ここで漢書は一部屋を増やす。「上與錯議出軍事,錯欲令上自將兵,而身居守」――皇帝と錯が出兵のことを議し、錯は皇帝みずから将兵し、自分は居守しようとした。袁盎が入見し、「願屏左右」――左右を退けてくださいと請う。「上屏人,獨錯在」――皇帝が人を退けると、錯だけが残った。「臣所言,人臣不得知」――臣の言うことは、人臣は知ることができない。「乃屏錯」――そこで錯を退ける。「錯趨避東箱,甚恨」――錯は急ぎ東箱に避け、ひどく恨んだ(東箱は一般に堂の東の廂)。史記のこの段は一句だけである。「鼂錯在前,及盎請辟人賜閒,錯去,固恨甚」――鼂錯は前にあり、盎が人を辟けて閒を賜わんことを請うたとき、錯は去り、もとより恨み甚だしかった。五つの動作は漢書のもの、一句は史記のもの。両処を並べ、一つを取って一つを捨てない。
袁盎の策もまた漢書にだけある。「獨有斬錯」――ただ錯を斬るほかはない。「發使赦吳楚七國,復其故地,則兵可毋血刃而俱罷」――使者を発して吳楚七国を赦し、その故地を復せば、兵は血刃を交えずしてともに罷む、と。皇帝は「默然,良久曰:顧誠何如,吾不愛一人謝天下」――黙然として良久しく、やがて曰く、顧みて誠に何如。吾は一人を愛しまずして天下に謝す、と。「吾不愛一人謝天下」は景帝の言葉である、と断って引く。
劾奏
十日ほどして、丞相の青翟、中尉の嘉、廷尉の藍が「劾奏錯」――錯を劾奏した。漢書にだけある。三つの罪名はそのまま引く。「錯不稱陛下德信,欲疏群臣百姓,又欲以城邑予吳,亡臣子禮,大逆無道」――陛下の徳信に称わず、群臣百姓を疏んと欲し、また城邑を以て吳に予えんとし、臣子の礼なく、大逆無道なり。判詞は「錯當要斬,父母妻子同產無少長皆棄巿」――錯は要斬に当たり、父母妻子同産は少長なくみな市に晒される。要斬は一般に腰斬と解される。続いて「臣請論如法」――臣請う、法のごとく論ぜんことを。そして「制曰:可」――制して曰く、可。この段はことごとく漢書にだけある。これが本当に裁判だったかは、次の四字で決まる。
「錯殊不知」――鼂錯は少しも知らなかった。この七字も「紿載行巿」も漢書にだけある。「乃使中尉召錯,紿載行巿」――中尉を遣わして錯を召させ、騙して車に載せ、市へ行かせた(紿載行巿は一般に、騙して車に載せ市へ連れて行く意と読まれる)。そして一句。「錯衣朝衣斬東巿」――錯は朝衣を着たまま東巿で斬られた。結末を並べる。「上令鼂錯衣朝衣斬東市」は前に「上令」があり、地名は「市」。「錯衣朝衣斬東巿」は「上令」がなく、地名は古い字形の「巿」。両頁とも東市に触れている。字形だけを各頁のまま録し、改めない。
鄧公の言
事のあと、皇帝は前線から戻った鄧公に問うた。鼂錯が死んだので、吳楚は兵を罷めたか、と。鄧公は答える。「吳王為反數十年矣,發怒削地,以誅錯為名,其意非在錯也」――吳王は反して數十年、地を削られたことに怒り、錯を誅するを名とした。その意は錯にあるのではない(漢書は「數十歲矣……其意不在錯也」)。その帰結を史記はこう言う。「且臣恐天下之士噤口,不敢復言也」――臣は恐れる、天下の士が口を噤み、また言うことを敢えてしなくなることを(漢書は「拑口」)。死者の弁護はこうである。「夫鼂錯患諸侯彊大不可制,故請削地以尊京師,萬世之利也」――鼂錯は諸侯が強く大きく制しがたいことを患い、削地を請うて京師を尊くし、万世の利としようとした。「計畫始行,卒受大戮,內杜忠臣之口,外為諸侯報仇」――計は始めて行われんとして、ついに大戮を受けた。内には忠臣の口を塞ぎ、外には諸侯のために仇を報いる。皇帝は「默然良久」(漢書は「喟然長息」)、そして言う。「公言善,吾亦恨之」――公の言は善い、吾もまた恨む。両頁が皇帝に与えるのはここまでである。本稿は平反を補わない。
漢書は班固の贊で終わる。「晁錯銳於為國遠慮,而不見身害」――晁錯は国のために遠慮することに鋭く、わが身の害を見なかった。父はそれを見て、「經於溝瀆」――溝瀆に経た、一般に飲薬自尽と解される。「亡益救敗」――敗れを救うに益なし。趙括の母がその宗を全うしたには及ばない(一般に、趙括の母が上書して括の用うべからざるを言ったことを指す)。「悲夫!錯雖不終,世哀其忠」――悲しいかな、錯は終わりを全うしなかったが、世はその忠を哀しむ。史記にこの贊はない。両頁ともにないもの。鼂錯の年齢、斬られた日、本当の訊問、彼に読み聞かされた判詞。分線を各一句。肉刑の廃止は別の篇、漢の法条は別の篇、張釋之の三案は別の篇、季布を匿ったことは別の篇。東市は両頁とも地名にすぎない。そこがどういう場所かという一般論は補わない。
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参考資料・関連文献
- 《史记》卷一百一·袁盎鼂错列传第四十一(西汉司马迁撰;维基文库本,白文无注,页头未标 textquality,未与中华书局点校本复核) — The shorter account, and its brevity is part of the argument. Chao Cuo of Yingchuan studied the penal doctrine of Shen and Shang; 錯為人陗直刻深; he was sent to study the Documents with the ninety-year-old Fu Sheng, and the heir apparent's household called him 智囊. He memorialised repeatedly on cutting the principalities (書數十上); Emperor Wen did not listen but thought him talented. His father came from Yingchuan and asked why he was carving up the royal kin; the answer is the sentence the article is built on, 固也。不如此,天子不尊,宗廟不安; the father said 劉氏安矣,而鼂氏危矣, took poison and died. Ten days later the seven states rose 以誅錯為名, and the account of the killing is a single sentence: 上令鼂錯衣朝衣斬東市 — the emperor ordered it, the dress is named, the place is written 東市. The page also has one compressed line for the private audience, 鼂錯在前,及盎請辟人賜閒,錯去,固恨甚, and Deng Gong's protest, 其意非在錯也 and 內杜忠臣之口,外為諸侯報仇, ending with the emperor's 公言善,吾亦恨之. Note the name is written 鼂錯 throughout this page. Text obtained through the Wikisource export service (ws-export.wmcloud.org); the page header (textquality) could not be re-checked in that export and is reported as the pack records it.
- 《汉书》卷四十九·爰盎晁錯传第十九(东汉班固撰;维基文库本,白文无注,页面标 textquality 25%,未与中华书局点校本复核) — The fuller account, and the one that shows the procedure being assembled. Its name is written 晁錯 and its market 東巿 — both pages have the Eastern Market, in different forms of the character. What Ban Gu adds is the room and the paperwork: the emperor discussing the campaign with Cuo; the audience at which Ang asks 願屏左右, then 臣所言,人臣不得知, then 乃屏錯, and Cuo 趨避東箱,甚恨; the advice 獨有斬錯 and 兵可毋血刃而俱罷; the emperor's 吾不愛一人謝天下; the full impeachment by the chancellor, the commandant and the commandant of justice with three charges and the sentence 錯當要斬,父母妻子同產無少長皆棄巿, answered 制曰:可; and then the seven characters that undo the proceeding — 錯殊不知, and 乃使中尉召錯,紿載行巿 — before 錯衣朝衣斬東巿. It ends with Ban Gu's judgement, 錯雖不終,世哀其忠. The longer stretches of this chapter on frontier defence and the examination answers are not used in this article. Text obtained through ws-export.wmcloud.org; the page header could not be re-checked in that export.




