日々の暮らし · 商から清まで
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身近な問いから、歴史の世界へ。

誰が銭を鋳るのか——五銖銭と三度の収権
元狩五年、半両銭が廃され、五銖銭が行われる。銭には周郭がめぐらされ、磨いて銅屑を取ることはできなくなった。以後二十年、鋳造の権は郡国から京師へ、さらに上林三官へと移る。ただし赤仄と三官の年は、原文に書かれていない。

銀一両は銭何文か——清の官定と市場
順治十年の「一厘」銭は、千文で銀一両。官の定めは二百年動かなかった。市場は康熙末に七百七十から八百八十、乾隆十三年に八百、道光十七年には常に二千。

八十陌——五代の銭は、なぜ足りなかったのか
九二四年、後唐の度支は「八十陌」、つまり八十文を百文として数えよと掲示した。だが巷は短い束を百文として通す。銭は銅器に溶かされ、塩は斤ごとに税を取られ、麴銭は畝に課された。足りない理由は条文のなかにあった。

一枚の紙が銭になるまで——元の鈔、偽造の罪、そして札の引き換え
深い灰色の桑皮紙に、賞金と死刑が刷り込まれている。傷んだ札は新しい札と引き換えられ、そのたびに工墨銭三十文を引かれた。元の紙幣が刷られ、使われ、焼き捨てられるまでの一巡と、最後に値打ちを失っていく理由を追う。

一道の判詞はどう書かれたか:唐代書判の構造・駢文・情と法の間
張鷟『龍筋鳳髓判』は擬判の模範文で、一件ずつ案を擬し、四六駢文で答える。判詞は典故と対句を使い、「法に常科あり」のような概称を引くが条番号は挙げない。敦煌『文明判集』の郭泰・李膺同船案は、天災・過失・反坐を段階的に整理する。これは「判詞の書き方」であり、「唐代の裁判」ではない。

北京から南京へ:徽州商人の路程書
徽州休寧の黄汴は、父兄とともに二十七年商いをしながら、道の里数・険所・盗賊の有無を八巻『一統路程図記』に書き留めた。北京会同館から南京龍江駅まで南下、潼関から連雲桟を経て成都まで四千三百二十里、山海関から順義まで十六駅・一程六十里。脚価も宿銭もない。

一つの猛安謀克戸——編制、田税、兵役
同じ『金史』の同じ名目で、猛安謀克の大きさは三つに変わります。太祖二年は三百戸で一謀克、大定十五年(1175)は七から十謀克で一猛安、末年は二十五人で一謀克。三つは混ぜられません。牛具や物力銭の規定、全国の総数はあっても、そこから一戸の田・税・兵は割り出せません。

苕箒十五把、七分五厘:万暦宛平県の一冊の帳簿
万暦年間、宛平県の知県・沈榜は、県が壇廟・陵園・宮府に納める品を一項ずつ帳簿に記した。苕箒十五把で七分五厘、太廟正祭の宛平負担は約三百九十七両、鋪行九則の徴銀、永楽初の七十五里が万暦には五十里に。これは採辦価と差役折銀であり、小売の市価ではない。

五斗の租の田、十四年——南宋の一つの田産訴訟
周村橋頭の田は年租わずか五斗。鄭応瑞と呉八がそれぞれ証文を手に、争いは十四年に及びました。呉八が田を孔主簿に売り、孔主簿がそれを県学へ捨て入れ、代理の県令が来歴を問わずに受け取ります。判官・翁浩堂は二通の干照を並べ、呉八に勘杖一百、県学の榜引は毀抹、干照は鄭応瑞に返すと判じました。
