日々の暮らし · 商から清まで
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身近な問いから、歴史の世界へ。

一編写せば覚える:唐代の蒙書と敦煌の学郎
敦煌の『秦婦吟』の巻末に「天復伍年乙丑歳十二月十五日敦煌郡金光明寺学仕張亀写」とある。名と日付と寺名。唐代の子どもは何を読んだか。『千字文』で字を覚え、『蒙求』で典故を諳んじ、『太公家教』で人となることを学んだ。学費も書価も時間割も、何もない。

一着の衣に二本の角:明代の服色・補子・等級
嘉靖十六年、兵部尚書の張瓚が蟒袍で入朝し、皇帝は一目で見抜いた。「飛魚に何ぞ両角あらん」。明代は補子・冠梁・袍色・帯で人を等級に钉づけた。文官は仙鶴から鶉まで、武官は獅子から海馬まで、商賈は絹布に止め、染坊まで連坐させた。だがこれは規定であって、街の実況ではない。

一道の判詞はどう書かれたか:唐代書判の構造・駢文・情と法の間
張鷟『龍筋鳳髓判』は擬判の模範文で、一件ずつ案を擬し、四六駢文で答える。判詞は典故と対句を使い、「法に常科あり」のような概称を引くが条番号は挙げない。敦煌『文明判集』の郭泰・李膺同船案は、天災・過失・反坐を段階的に整理する。これは「判詞の書き方」であり、「唐代の裁判」ではない。

北京から南京へ:徽州商人の路程書
徽州休寧の黄汴は、父兄とともに二十七年商いをしながら、道の里数・険所・盗賊の有無を八巻『一統路程図記』に書き留めた。北京会同館から南京龍江駅まで南下、潼関から連雲桟を経て成都まで四千三百二十里、山海関から順義まで十六駅・一程六十里。脚価も宿銭もない。

七枚の布、四十九グラム:漢代の衣はどう裁たれたか
馬王堆一号墓の素紗単衣二枚、四十九グラムと四十八グラム。直裾のほうは七枚の布から縫う——上衣四枚、下裳三枚。経密は一センチ五十八から六十四本、透光率七十五パーセント。『後漢書・輿服志』では冠の高さも綬の長さと首数も官階順に並ぶ。値段も工数も記録はない。

一つの猛安謀克戸——編制、田税、兵役
同じ『金史』の同じ名目で、猛安謀克の大きさは三つに変わります。太祖二年は三百戸で一謀克、大定十五年(1175)は七から十謀克で一猛安、末年は二十五人で一謀克。三つは混ぜられません。牛具や物力銭の規定、全国の総数はあっても、そこから一戸の田・税・兵は割り出せません。

一剤の薬はどう調えられたか:診候から薬蔵まで
『備急千金要方』巻一は処方の目録ではなく、配薬の手順書です。まず診候、薬は炙り・炮り・洗ってから秤に載せ、生のままは量らない。二十両に水一斗、四升まで煮て三服に分け、忌口は長く続きます。薬代も診察料も、方書に値段は一つもありません。

苕箒十五把、七分五厘:万暦宛平県の一冊の帳簿
万暦年間、宛平県の知県・沈榜は、県が壇廟・陵園・宮府に納める品を一項ずつ帳簿に記した。苕箒十五把で七分五厘、太廟正祭の宛平負担は約三百九十七両、鋪行九則の徴銀、永楽初の七十五里が万暦には五十里に。これは採辦価と差役折銀であり、小売の市価ではない。

五斗の租の田、十四年——南宋の一つの田産訴訟
周村橋頭の田は年租わずか五斗。鄭応瑞と呉八がそれぞれ証文を手に、争いは十四年に及びました。呉八が田を孔主簿に売り、孔主簿がそれを県学へ捨て入れ、代理の県令が来歴を問わずに受け取ります。判官・翁浩堂は二通の干照を並べ、呉八に勘杖一百、県学の榜引は毀抹、干照は鄭応瑞に返すと判じました。
