元光のころ、黄河が瓠子で決壊した——「東南注鉅野,通於淮、泗」、すなわち東南へ鉅野に注ぎ、淮・泗へ通じた。最初の堵口(決口を塞ぐ工事)はほとんどすぐに失敗した。そこで丞相が口を開き、工事は止まった。「於是天子久之不事復塞也」——天子は長らく再び塞ぐことをしなかった、と。二度目の着手まで二十年余りが過ぎ、そのときには皇帝が自ら河辺に来た。材料は二頁。『史記』河渠書(著者は堵口で薪を負ったと自ら言う)と、『史記』に沿いながら王莽まで続く『漢書』溝洫志である。両頁の異文はここに並べて置き、一つに合わせない。
一、決壊と最初の堵口
書はまず前回の決壊を記す。「漢興三十九年,孝文時河決酸棗,東潰金隄,於是東郡大興卒塞之」——漢が興って三十九年、孝文のとき河が酸棗で決し、東の金隄を潰し、そこで東郡が大いに卒を興して塞いだ。それから瓠子である。二頁の年数は異なる。『史記』は「其後四十有餘年,今天子元光之中」、『漢書』は「其後三十六歲,孝武元光中」。二つの数字は原文のまま録し、どちらか一方に合わせない。
最初の堵口は一句だけである。「於是天子使汲黯、鄭當時興人徒塞之,輒復壞」——天子は汲黯と鄭當時に人徒を興して塞がせたが、たちまちまた壊れた。その代価が続く。「自河決瓠子後二十餘歲,歲因以數不登,而梁楚之地尤甚」——瓠子の決壊から二十余年、年々しばしば実らず、梁・楚の地がとりわけひどかった。どれだけの田が沈み、どれだけの人が移ったか、二頁は与えない。与えるのは「數不登」と「尤甚」だけで、それ以上は補わない。
二、「皆天事」
動かない理由は、議論ではなく私利として書かれている。「是時武安侯田蚡為丞相,其奉邑食鄃。鄃居河北,河決而南則鄃無水菑,邑收多」——そのとき武安侯田蚡が丞相で、その奉邑は鄃の租税であった。鄃は河の北にあり、河が南へ決すれば鄃は水害を受けず、邑の収穫は多かった。次に彼が使った言葉。「蚡言於上曰:『江河之決皆天事,未易以人力為彊塞,塞之未必應天』」——河や江の決壊はみな天の事であり、人力で無理に塞ぐのは難しく、塞いでも天に応じないかもしれない、と。そして「而望氣用數者亦以為然」——気を望み数を占う者たちも同じように考えた。頁はそれから「於是天子久之不事復塞也」とだけ言う。封邑、言葉、遅延をこの順に並べるが、前者が後者を引き起こしたとは一言も言わない。田蚡の利益が判断に影響したというのは推測であり、推測として記される。
その二十余年のあいだのこと、二頁はほとんど何も言わない。堵口を主張する別の声もなく、費用の見積りもなく、部分的な修堤にも触れない。記録は進言から遅延へと一足で飛ぶ。『漢書』の同じ段は用字がやや異なる——「鄃無水災,邑收入多」「是以久不復塞也」——そのまま並べて置く。
三、堵口——白馬、玉璧、そして淇園の竹
二度目の着手は封禅と山川の巡祭のあとである。「其明年,旱,乾封少雨」——翌年は旱に、封のあたりも雨が少なかった。そこで「天子乃使汲仁、郭昌發卒數萬人塞瓠子決」——汲仁と郭昌に命じ、卒数万人を発して瓠子の決口を塞がせた。「數萬人」が二頁の与える数のすべてである。人夫の総数も、穀も、賃も、決口の幅も、二頁は与えない。皇帝自身が来た。「於是天子已用事萬里沙,則還自臨決河,沈白馬玉璧于河」——万里沙で祭祀を済ませたのち、帰途に自ら決河に臨み、白馬と玉璧を河に沈めた。続いて「令群臣從官自將軍已下皆負薪窴決河」——群臣従官、将軍以下すべてに薪を負わせ、決河を塞がせた。そして材料が尽きる。「是時東郡燒草,以故薪柴少,而下淇園之竹以為楗」——そのとき東郡は草を焼いており、そのため薪柴が乏しく、淇園の竹を伐り下して楗とした。楗は一般に、堵口に用いる杭や竹木の枠と理解される。本頁に注はないので、ここでは「一般に」と断っておく。
歌が二首引かれ、いずれも皇帝の作とされる。河に臨み、功が成らないことを悼んで作ったという(「天子既臨河決,悼功之不成,乃作歌曰」)。第一首はこう始まる。「瓠子決兮將柰何?皓皓旰旰兮閭殫為河」——瓠子が決した、どうしたものか。皓皓旰旰として、村里はみな河となった。第二首は不足を名指しする。「搴長茭兮沈美玉,河伯許兮薪不屬。薪不屬兮衛人罪,燒蕭條兮噫乎何以御水」——玉は沈み、河伯は許したが、薪が続かなかった。薪が続かないのは衛人の罪か、焼け野原となって、ああどうやって水を防ごうか。歌は与えられたまま録し、文学としては論じない。『漢書』の異文——「浩浩洋洋,慮殫為河」「皇謂河公兮何不仁」「宣防」——をそのそばに並べる。
四、堵成のあと——宣房と「復禹舊跡」
「於是卒塞瓠子」——ついに瓠子は塞がれた。そして「筑宮其上,名曰宣房宮」——堤の上に宮を建て、宣房宮と名づけた(『漢書』は「宣防」と書く)。次は河道である。「而道河北行二渠,復禹舊跡,而梁、楚之地復寧,無水災」——河を北へ二渠に分けて流し、禹の旧跡を復したとして、梁・楚の地は再び安んじて水害がなくなった。「復禹舊跡」は事を成した者たちの言葉であって、測量の結論ではない。禹の旧道がどこにあったかは、二頁とも言わない。結びの一句。「自是之後,用事者爭言水利」——これ以後、用事の者たちは争って水利を語った。
篇の終わりは著者自身の言葉である。「太史公曰」で始まる節の結びは二句に収まる。「余從負薪塞宣房,悲瓠子之詩而作河渠書」——私は宣房の堵口で薪を負い、瓠子の詩を悲しんで河渠書を作った、と。これは司馬遷自身の言葉であり、二頁のうち誰がその場にいたかを語る唯一の文である。ここでの堵口の話はすべて、自分はそこにいたと言う者の筆になる——これは出典についての事実であって、細部の保証ではない。
五、その後の勘定と、行われなかった一案
『漢書』はさらに勘定を続ける。元帝のとき「永光五年,河決清河靈鳴犢口,而屯氏河絕」——永光五年、河が清河の霊鳴犢口で決し、屯氏河が絶えた。成帝の初め、許商が視察して「方用度不足,可且勿浚」——費用が足りない、当分は浚うべきでない、と報告したあと、「後三歲,河果決於館陶及東郡金隄」——三年後、河は果たして館陶と東郡の金隄で決した。数字はこうである。「凡灌四郡三十二縣,水居地十五萬餘頃,深者三丈,壞敗官亭室廬且四萬所」——四郡三十二県を灌ぎ、水の下の地は十五万余 qing、深いところは三 zhang、官亭・室廬の壊れたもの四万所。「徙民避水居丘陵,九萬七千餘口」——水を避けて丘陵に移った民は九万七千余口。御史大夫の尹忠は方略が疎闊だとして責められ、自殺した。堵口したのは王延世である。「以竹落長四丈,大九圍,盛以小石,兩船夾載而下之。三十六日,河隄成」——竹の落(竹籠)は長さ四 zhang、周り九 wei、小石を盛り、二艘の船で挟んで下ろした。三十六日で河隄が成った。このため年号を変えて河平元年とし(「其以五年為河平元年」)、関内侯の爵と黄金百 jin を賜った。「後二歲,河復決平原」——二年後、河はふたたび平原で決し、損害は前回の半分であった。鴻嘉四年には「勃海、清河、信都河水湓溢,灌縣邑三十一,敗官亭民舍四萬餘所」。qing、zhang、wei、jin、口は原文のまま録し、換算しない。
篇は、行われなかった一案で終わる。哀帝の初め、賈讓が「治河有上中下策」と奏した。上策は「徙冀州之民當水衝者,決黎陽遮害亭,放河使北入海」——冀州の民を水衝に当たる者から移し、黎陽の遮害亭の堤を決して河を北へ海に入れる。中策は「多穿漕渠於冀州地,使民得以溉田,分殺水怒」——冀州の地に漕渠を多く穿ち、民に田を灌がせ、水の勢いを分けて殺ぐ。下策は「繕完故隄,增卑倍薄,勞費無已,數逢其害,此最下策也」——古い隄を繕い、低い所を高くし薄い所を厚くするだけで、労費は尽きず、しばしば害に遭う、これが最下の策である。これは議論であって、三つのうちどれが行われたかは二頁とも言わない。書の結びは「王莽時,但崇空語,無施行者」——王莽のときは空語を崇ぶだけで、行う者がなかった、である。一つの決口は塞がれ、堤の上に宮が建ち、年号が一つ変わり、紙の上に一案が残った。鄭国渠と溝洫は別の題目であり、本篇は黄河のこの一度の決壊だけを書く。
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参考資料・関連文献
- 《史记》卷二十九·河渠书(西汉司马迁撰;维基文库本,页面白文无注,未与中华书局点校本复核) — Sima Qian's chapter on rivers and canals, whose author says he carried firewood at the closing of the Huzi breach. Under Emperor Wu, in the yuan guang reign, the Yellow River breaks at Huzi and flows southeast into Juye, through to the Huai and Si; Ji An and Zheng Dangshi are sent to close it and it breaks again; Chancellor Tian Fen, whose fief lies north of the river, argues that river-breaks are Heaven's doing and not to be forced, and for a long time nothing is done; more than twenty years later Ji Ren and Guo Chang are sent with tens of thousands of men, the emperor comes in person, sinks a white horse and jade discs, makes every officer from the generals down carry firewood, and, the grass of Dongjun having been burned, cuts bamboo in the Qi garden for piling; two songs are quoted, one complaining that the firewood ran out; the breach is closed, a palace named Xuanfang built on the embankment, the river led north in two channels 'restoring Yu's old course'; the chapter closes with the Grand Historian saying he carried firewood at the closing of Xuanfang and grieved at the Huzi songs.
- 《汉书》卷二十九·沟洫志(东汉班固撰;维基文库本,页面白文无注,未与中华书局点校本复核) — Ban Gu's treatise on waterways: the early part follows the Shiji closely with variant readings (其後三十六歲 for 其後四十有餘年; 湛白馬玉璧; 寘決河; 揵; 名曰宣防; variant song lines), and the later part continues to Wang Mang with figures: under Emperor Cheng a breach floods four commanderies and thirty-two counties, more than 150,000 qing under water, three zhang deep in places, some 40,000 buildings ruined, more than 97,000 people moved; Wang Yanshi closes it in thirty-six days with bamboo baskets four zhang long and nine wei around, filled with small stones and lowered between two boats, and the reign-title is changed to Heping; two years later the river breaks at Pingyuan, and at Hongjia 4 it floods thirty-one counties and more than 40,000 houses; Jia Rang's three policies — move the people of Jizhou and let the river go north to the sea, cut channels to divide its force, or merely repair the dikes, 'the worst policy of all' — are argued and not carried out, and 'under Wang Mang there was much empty talk and nothing done'.




