まず一つの方格から。後代の京畿地誌『三輔黄図』は、「長安九市」の条で、より古い『廟記』を引き写している。「長安の市九あり、各々方二百六十六歩。六市は道の西に在り、三市は道の東に在り。凡そ四里を一市と為す。横橋の大道を夾みて、市楼は皆な重屋なり」——長安の市は九つ、それぞれ二百六十六歩四方。六つの市は道の西、三つは道の東。四里ごとに一市。横橋大道を挟んで、市楼はみな二階建てであった。これは記録が記すとおりの数字であって、現代の測量ではない。九つの市の位置は今も論争があり、本稿は記録が何を言っているかだけを書く。歩は原文のままに置き、メートルへの換算はしない。

九市はどう記されたか

同じ条には建築も書き足される。「旗亭の楼は、杜門大道の南に在り」と。そして、九という数を超える市名が挙げられる。「又、柳市・東市・西市あり」——柳市、東市、西市である。さらに直市があった。富平津の西南二十五里にあり、「即ち秦の文公の造る所なり。物に二価無く、故に直市を以て名と為す」——秦の文公が造ったもので、品物に二つの値がなく、だから直市と名づけられた。一つの値で、駆け引きはない。それぞれの市が何を売っていたかは、この条は一文字も言わない。この三つの市名が九市のうちに入るのか、それとも別の数え方なのかも、原文は説明しない。

同書はさらに張衡(ちょうこう)の『西京賦』を引く。「郭に九市を開き、闤を通じ闠を帯び、旗亭は五重、俯して百隧を察す」——城郭に九市を開き、市壁と市門が連なり、旗亭は五重の高さで、百の街路を見下ろす。賦は文学であり、記録より高く積み上げる。地誌は「市楼は皆な重屋なり」と記し、賦は「旗亭は五重」と言う。二つの記述はここに並べて置くが、調停はしない。一方は記録であり、他方は詩だからである。

街・里と市

市は城の方格の内側にある。同書は「長安城中に八街九陌あり」と言い、これは『三輔旧事』の言葉を引いたもの。街の名は三つだけ挙げられる——香室街、夕陰街、尚冠前街。例であって、全部の一覧ではない。さらに「長安の閭里一百六十、室居は櫛比し、門巷は修直なり」——長安の里は百六十、家屋は櫛の歯のように並び、門と巷はまっすぐに通っていた。市と街と里は、同じ方格のなかの三種類の升目である。里は壁に囲まれた区画、街は区画と区画のあいだの線、市は市門と官署を自前で備えた区画である。

市を管したのは誰か

市は自由な市ではなかった。同じ条に「市楼に当たるに令署あり、以て商賈の貨財・売買・貿易の事を察す。三輔都尉これを掌る」とある。つまり市には官署があり、主管がいた。しかも主管は京畿の武職であって、商人の組合ではない。官署がどう編制され、市税をいくら取り、どんな吏員が置かれたか——この条はどれも言わない。市税、市租、商品の種類に至っては、材料に一切ない。長安に何人の商人がいたか、市籍に何の名が載ったかも、どこにも書かれていない。この空白は本稿が印をつけるだけで、埋めはしない。京畿の武職が市を押さえていたのは記録の事実である。その背後にどれほどの巡禁と統制があったかは推測であり、原文はそこまで踏み込まない。

一枚の市籍

二つ目の材料は、『史記』「平準書」に残る武帝の時代の令である。「賈人にして市籍ある者、及びその家属は、皆な籍を以て田を名のるを得ず、以て農を便にせんがためなり。敢えて令を犯す者は、田僮を没入す」——市籍を持つ商人、およびその家族は、みな自分の名で田を占めることができない。農を便にするためである。令に敢えて背く者は、田と僮僕を没収される。条文としても簡潔そのもので、市籍、家族、田、没収——四つを数え上げて止まり、ほかは何も言わない。

この一句は同時に二つのことをする。商人に一つの身分——市籍——を与え、その身分から一つの権利——自分の名で田を占める権利——を取り上げる。理由は令のなかに書かれている。「以便農」——農を便にするため。つまり商人を、国家が守ろうとした農耕の秩序の外に置く。どうすれば市籍に載るのか、誰がその帳簿を管理したのか、帳簿に何の名が載ったのかは、この令は言わない。本稿もこれを、後世の戸籍の前身として扱わない。

同じ巻の少し前には、並行するもう一つの措置が置かれている。商人は「市籍無きと雖も、各々その物を以て自ら占め、率(おおよそ)緡銭二千にして一算」——市籍がなくても、それぞれ自分の貨物を申告し、おおむね銭二千につき一算を出す。市籍の令と隣り合ってはいるが、同じことではない。どちらが先か、どう一緒に執行されたかは記録がない。これを一つの政策だと言うのは推測であって、記録ではない。ここでの算は税の計算単位であって、銭の額ではない。この巻は自前の算法を持っており、本稿はそれを換算しない。

書けること、書けないこと

断言できるのは、記録が与えるものだけである。九つの市、それぞれ二百六十六歩四方、六市は道の西、三市は道の東、四里で一市、市楼は重屋、旗亭楼は杜門大道の南、柳市・東市・西市の名、値が二つない直市。八街九陌、閭里百六十。市楼に令署があり、三輔都尉が掌る。市籍を持つ者とその家族は田を名乗れず、令に背けば田と僮僕を没収される。これらは原文のままに引き、歩をメートルに換算せず、面積も計算しない。

書けないのは、九つの市がそれぞれ何を売っていたか、九市が今の地図のどこに当たるか、市税がいくらだったか、市籍に何人が載ったか、長安の商業が「繁栄」していたかどうか。これらは材料のどこにもない。二百六十六歩を実測値として扱うこと、市籍を後世の戸籍と呼ぶこと、この材料を五銖や幣制の改革と混ぜること——これもできない。それは別の二本の線である。

こうして二つの材料は、それぞれ一端を持っている。一方は土地に方格を描き、売買は区切られた場所でしか行えないと定める。他方は帳簿に名を書き、誰がその身分を持てるか、持つことで何を失うかを定める。合わせて見れば、一つの政権が同じ制度に二つの手をかけている——空間を管し、人を管する。どちらの手がどれほどうまく働いたかは、どちらのテキストも言わない。残っているのは方格と名簿だけである。人は方格に露店を、名簿に顔を書き込みたくなる。材料はそれを許さない。小さな結論だが、正直な結論である。

参考資料・関連文献

  1. 《三辅黄图》卷之二·长安九市(旧籍,四库提要考为唐肃宗以后人作;维基文库本) — Late old topography quoting the Miaoji: nine markets, each 266 paces square, six west of the road and three east, four li to a market, two-storeyed market towers along the Hengqiao avenue, and a flag pavilion south of the Dumen avenue. It also names the Willow, East and West markets and the Zhi market founded by Duke Wen of Qin, records the market office under the commandant of the Three Auxiliaries, and gives eight streets, nine avenues and one hundred and sixty wards. The locations of the nine markets remain disputed; only what the text says is reported here.
  2. 司马迁《史记》卷三十·平准书(西汉;维基文库本) — Western Han account: men on the market roll, and their families, were forbidden to hold land in their own names 'so as to benefit agriculture'; offenders had their fields and servants confiscated. The parallel levy on merchants' declared capital (one suan per 2,000 cash) is quoted only as background. This ties merchant status to land rights and is kept separate from the coinage material.