北宋の開封では、消防は「歩」で測られていた。坊巷ごとに三百歩ほどで一所の軍巡舗を置き、舗兵五人が夜を巡る。宋の尺で換算すれば約四百七十メートル——これは推算値である。さらに高い所に目をやれば、煉瓦造りの望火楼。楼上には見張りが立ち、楼下の官屋数間に兵百余が屯し、火消しの道具がそこに置かれていた。これは臨時の応急ではなく、常設の編制である。開封の陥落後、旧都を思い出して書いた孟元老は、それをそのまま記録した。
一、五人で三百歩
軍巡舗は軍の編制であって、町内の自衛組織ではない。一舗に五人、任務は「夜間巡警及び公事を領す」——夜に異常があれば報せ、お上に関わる事柄も預かった。三百歩は隣り合う二舗の間隔であり、ある城壁の長さではない。宋の一尺は約三十一センチ、一歩は五尺、換算すれば一舗あたり約四百七十メートルになる。
望火楼は「高い所」にあった。その「高い所」がどれほど高く、楼がいくつあり、どこに配置されたかは、書物に記されていない。楼下には官屋が数間、兵百余が屯していた。この百余人が楼ごとに置かれたのか総数なのかは、原文の語順からは判じられない。「各楼に」と勝手に補ってはならない。
二、警報は旗の符号
南宋の臨安では、この仕組みがさらに細かくなった。軍巡舗は二百余歩ごとに一舗、兵卒は三五人。舗の仕事は火だけではない。盗賊も街の揉め事も預かり、騒ぐ者があれば舗に訴え出、舗から廂官に上げられ、州衙に送られて裁かれた。
臨安は「隅(ぐう)」で区を分けた。諸坊の境に防隅官屋を置いて兵を屯し、別に望楼を立て、兵卒を朝夕に交代で見張らせた。記録に残る隅は二十余か所。東隅の望楼は柴垜橋の都税務の南、西隅は白亀池、府隅は府治の左院牆のほとり、城西隅は錢湖門外の清化橋にあった。
警報は叫び声ではない。煙の見える所があれば、昼は旗で方角を示し、夜は灯に替える。朝天門の内が三面、朝天門の外が二面、城外が一面。夜は灯の数も旗の数と同じく三等に分かれる。一つの信号で三つの方位、城じゅうの望楼がそれを読める。これは声量ではなく、符号である。
臨安の舗の間隔が開封より短いのは、書き間違いではない。二つの都、二つの制度である。開封は三百歩、臨安は二百余歩。『夢粱録』の同じ条の冒頭は、臨安を「民居屋宇高森、接棟連檐、寸尺無空、巷陌壅塞」——家並みが高く密で棟から檐へ続き、寸の隙もなく、路地がふさがっている——と記す。住居が密で路地が狭ければ火の危険は高まる。舗の間隔が短いのは、それと関係するかもしれない。書に直接の説明はなく、これは推測である。二つの数字を合わせて「宋の標準」にしてはならない。
三、舗に置かれたもの
火消しの道具は、名目の一覧だけが残る。大小の桶、洒子(しゃし)、麻搭(まとう)、斧と鋸、梯子、火杈(かしゃ)、大索、鉄猫児(てつびょうじ)。原文は使い方を説明しない。後世の通説と形からの推測はこうだ。桶は水を運び、麻搭は長い竿に麻を解いて結わえ、水に濡らして火を打ち払う。火杈は燃える梁を突き崩す。大索と鉄猫児(鉄の鉤)は、家を引き倒し、梁柱を引き離して防火帯を作るためのもの。これは一般に言われる説明であり、宋の人の説明ではない。
字そのものも、写し伝わるうちに揺れた。識典 SK1074 本は「洒子」「火杈」、維基文庫本は「酒子」「火叉」と書く。名は器物より崩れやすい。
四、火が出たあと、誰が出るのか
開封の連鎖は同じ条に書かれている。火事のありかがあれば、馬軍が駆けて報せる。軍廂主、馬歩軍、殿前三衙、開封府がそれぞれ兵を率いて水を汲み、消し止めた。四つの軍が同時に出動する——都の駐屯軍がそのまま消火の序列に組み込まれていた。原文は続けて「百姓を労せず」という。孟元老の言葉であり、制度が民の力に頼らない設計だったことを示す。だが民がまったく加わらなかったという意味ではない。時期によって規定も違う。「宋は民の消火を禁じた」と読むべきではない。
臨安には指揮がもう一段あった。煙を見れば救いに出、帥臣(すいしん)自ら地分に赴き、府治の内の六隊を率い、将佐軍兵および帳前四隊の親兵隊、搭材隊(家屋を壊す隊)が号令を聴いて合力して消し止める。消したあとは犒賞が出され、力を尽くさぬ者は軍法で罪した。火の側には軍と官府と、責任の追及が同時に立っていた。
五、代価と、帳簿にないもの
なぜ常備隊を養うのか、その数字は『宋史・五行志』にある。熙寧七年(1074)に三司が火事になり、巳の刻から戌の刻まで燃え、千八百楹の屋舎を焼き、案牘はほとんど残らなかった。元豊八年(1085)に開宝寺が火事になり、当時礼部の貢院がこの寺を借りて使っていたため、点校試巻官の翟曼・陳之方・馬希孟が焼け死に、吏卒十四人も死んだ。嘉定元年(1208)、行都の大火は五万八千九十七戸を焼き、城内から外へ十数里に広がり、死者五十九人、都の家屋は七割が失われ、百官は多く舟を借りて住んだ。
だが制度の説明書はそこで終わる。舗兵の俸給や口糧は、二書のどちらにもない。編制の総数、駐屯地の一覧もない。訓練や演習の記録もない。器具をどう手入れし、どう替えたかもない。火事の回数の統計は、宋には現代的な統計がなく、『五行志』から一件ずつ数えるほかはないが、その記載そのものに選択がある。
残ったのは一つの幾何学である。五人、三百歩、いくつかの旗、いくつかの灯。それがどう回り、いくらかかり、夜に塔へ上った者たちがのちにどうなったかは、帳簿にない。史書は機械を保存し、人間を捨てた。
参考資料・関連文献
- 孟元老《东京梦华录》卷三「防火」(Meng Yuanlao, Dongjing Meng Hua Lu, juan 3, "Fire Prevention") — Patrol posts, brick watchtowers, the firefighting equipment, the cavalry report and the four columns that turned out.
- 吴自牧《梦粱录》卷十「防虞巡警」(Wu Zimu, Meng Liang Lu, juan 10, "Fire Watch and Patrols") — Lin'an patrol posts, fire stations, the flag-and-lamp signal code, the list of fire districts and the chain of command.
- 脱脱等《宋史》卷六十三《五行二上·火》(Tuotuo et al., Song Shi, juan 63, "Five Phases II: Fire") — Major fires in Kaifeng and Lin'an, with casualties and buildings destroyed.
- 马泓波《略谈宋代的消防制度》,《光明日报》2010-02-09 (Ma Hongbo, "A Brief Discussion of Song Firefighting", Guangming Daily, 9 February 2010) — Secondary study; its figures must be checked against the original texts and are not relied on in the body.
- 孟元老《东京梦华录》卷三「防火」(维基文库本,异文对照)(Meng Yuanlao, Dongjing Meng Hua Lu, juan 3, Wikisource edition, for textual comparison) — This edition reads 酒子 and 火叉 where SK1074 reads 洒子 and 火杈.




