西安の北西にある未央宮の遺址では、前殿が夯土の塚として残る。高さ約十五メートル、南北三百五十メートル、東西およそ二百メートル。断面には夯土の層が現れ、頂は平らである。それは台であって建物ではない。台が載せていた殿は失われた。宮は紀元前200年に着工し、周囲八千八百メートルの牆が今も田の上を走る。未央宮は漢の都の内なる宮であり、今日の遺址は田畑と牆の線と塚である。
まず塚ありき
この台は前・中・後の三殿を載せていたとされ、そのうち中殿が主殿とされる。南から北へ高まり、残る十五メートルが最高点である。この読みと高まりは、遺址の展示解説と報道によるもので、発掘報告によるものではない——本稿は発掘報告を持っていない。目に見えるのは土であり、三殿はその上に重ねられた解釈である。ここで用いた資料には、いずれの殿についても奥行きも柱間の幅も出ていない。展示解説は、台の最高点を北端の十五メートルとする。
計測値も一つではない。ある新聞記事は、台を南北約三百五十メートルとある箇所で書き、別の箇所では四百メートルとし、後者では夯土の基盤を八万平方メートルとする。遺址の紹介は三百五十メートルとする。二つの値はここに並置し、平均もせず、一つに丸めもしない。五十メートルは書き損じではない。報道が含んでいるもの、それがそれである。記事はまた台を「小さな土の山のようだ」と描写する——描写であって、計測ではない。
書物は殿を測る
次に書物がある。『三輔黄図』は四庫本の長安地誌で、未央宮の条を『漢書』から起こす。高祖七年、蕭何が未央宮を建て、東闕・北闕・前殿・武庫・太倉を置いた、と。続けて言う——「宮は周回二十八里、前殿は東西五十丈、深さ十五丈、高さ三十五丈」、そしてこの殿を「路寝」と呼び、「諸侯と群臣を朝す所」とする。四庫本の本文は「路寝」の前に「同」と読み、別本は「曰」に作る。この書は漢の档案ではない——四庫の編者はその著者を唐の肅宗以後の人としている——し、その数は古地図と伝承から来たもので、測量から来たものではない。
だから二組の数は出会わない。五十丈は殿の幅であり、二百メートルは三殿を載せる夯土台の幅である。三十五丈は記録された建物の高さであり、十五メートルは台の残存である。本稿は一方を他方に換算しない。漢尺は本稿で確かめていないし、「五十丈、およそ百十五メートル」は書いてはならぬ文である。またこの隔たりは正すべき誤りではない。建物を記したテキストと、廃墟を測った調査とは、別のものを語っている。テキストは、その五十丈が三殿のどれを指すかを言わない。中殿かもしれないが、それは推測である。
台はどう作られたか
書物は台の作り方も記す。「未央宮を営むに、前殿は龍首山に因る」とし、「山を斬りて台と殿とを為し、夯土を以てせず、長安城の上に高し」。その注は『西都賦』を引く——「龍首を拡げて前殿を起こす」。同じ注は、この山を六十里とし、首は渭水にあり、尾は樊川にあるとする。台は山を削って作られたのであって、土を積んだのではない。ゆえに都の上の高さの一部は、造営ではなく地質かもしれず、どれだけ土を動かしたかは記録されていない。
だから文学と遺址は別のものを語る。殿は台の上に立ち、失われた。台は残り、その十五メートルは残存であって本来の高さではない。ここに用いた資料は、台の本来の高さも、三殿いずれの奥行き・柱間も与えない。残るのは形と一句である。書物の三十五丈は地上の何とも突き合わせられない。テキストに運ばれた数である。
城門を物差しにする
城門が尺度を与える。長安城壁の直城門は幅三十二メートル、奥行き二十メートル、通路三つ、その間に厚さ約四メートルの夯土の隔壁があった。前殿の台は幅およそ二百メートル——門の幅の六倍余り。道が通れるほどの門は、幅でいえば、皇帝の殿が載った台のおよそ六分の一だった。この比較は壮麗さを主張するものではない。同じ資料のなかで唯一、建物の尺度で測られた数だからである。門の数は計測であり、殿の数はテキストである。
同じ資料から他の数も、それぞれの身分とともに。宮の牆は周囲八千八百メートル、一方、書物の「二十八里」は別の出所の別の単位で、両者は換算しない。宮の面積は一つの記述で四・八平方キロ、別の記述で約五平方キロ。東西の牆は二千百五十メートル、南北は二千二百五十メートルとされ、報告では「記録に拠る」と付記されている。天禄閣は前殿の南七百三十メートル、石渠閣は天禄閣の西五百二十メートルにあった。これらは距離と面積であって、高さではない。一方の面積は測られたように見え、他方は概数に見える。資料は両者を突き合わせない。
前殿と呼ばれる二つのもの
限界を並べる。書物の寸法は計測ではない。丈とメートルの換算は試みない。残る十五メートルは本来の高さではない。三百五十メートルと四百メートルは併合しない。宮の全体平面は描かない——資料が与えるのは牆、四門、三殿、前殿の位置だけである。復元図や模型を寸法として使わない。優劣の主張はしない。台の労賃・工期・費用は、記録がないので捏造しない。
かくして本稿は、同じ名を持つ二つのもので終わる。地上では、頂の平らな夯土の塚、一方に三百五十メートル、他方に二百メートル、侵食されていないところで十五メートル。紙の上では、幅五十丈、深さ十五丈、高さ三十五丈の殿、そこは「諸侯と群臣を朝す所」であり、龍首山を削って作られた。塚と一句はどちらも証拠である。同じ計測ではなく、その隔たりが主題である。読者は塚の上に立てるが、一句は読むしかない。
参考資料・関連文献
- 《三辅黄图》卷二(四库全书本)·汉宫·未央宫条(撰人不详,四库提要考为唐肃宗以后人作)(Sanfu huangtu, juan 2, Siku edition: Weiyang palace) — Old topography of Chang'an, not a Han archive. Opens with a quotation from the Han shu: in the seventh year of Gaozu, Xiao He built Weiyang palace with its eastern and northern gate-towers, front hall, armory and granary. Gives the palace as twenty-eight li in circuit, the front hall as fifty zhang east-west, fifteen deep and thirty-five high, called the luqin where lords and ministers were received; and says the front hall was made to follow the Longshou ridge, the hill cut into a terrace 'without rammed-earth construction'. The Siku text reads 'tong' before luqin where another edition reads 'yue'.
- 央视网〈汉长安城未央宫遗址保护展示区各点简介〉2013-11-01 (CCTV.com, introduction to the Weiyang palace site display area) — Site display introduction, reporting rather than an excavation report: surviving rammed-earth platform of the front hall 15 m high, 350 m north-south and about 200 m east-west; palace begun in 200 BC, wall 8,800 m in circuit, area 4.8 sq km; Zhicheng gate 32 m wide and 20 m deep with three passages and partitions about 4 m thick; Tianlu Pavilion 730 m south of the front hall, Shiqu Pavilion 520 m west of Tianlu.
- 陕西日报〈丝绸之路的东方起点 汉长安城未央宫遗址〉2014-08-01(华商网转载页)(Shaanxi Daily, 'The eastern starting point of the Silk Road', 1 Aug 2014; repost page) — Newspaper report, repost page, not an excavation report: the same article gives the front-hall platform as about 350 by 200 m in one place and 400 by 200 m with a base of 80,000 sq m in another; three halls rising from south to north; palace area about 5 sq km; east and west walls 2,150 m and north and south 2,250 m, marked as 'according to records'.




