開封の州橋のたもとでは、まだ夜が明けきらぬうちに酒楼が灯をともして酒を売っている。酒と料理で「二十文を過ぎない」——これは『東京夢華録』巻三「天暁諸人入市」に記された値段である。銭を二十枚数えて渡す。ところが同じ日の同じ銭が、魚を買うとき、金銀を買うとき、女中を雇うときには、それぞれの商売の作法で目減りする。どれだけ減るかは、同じ巻の「都市銭陌」の一条に書いてある。「都市の銭陌は、官は七十七を用い、街市は通用七十五、魚肉菜は七十二陌、金銀は七十四、珠珍・女中を雇う・虫蟻を買うは六十八、文字は五十六陌、商売ごとに長短があって用いられる」と。
一、陌は百枚ではなく、百文の帳簿
まず三つの単位を分けておく。文は銭一枚。貫は名目上一千文。陌は帳簿上の百文である。短陌とは、その百文が満額でないことをいう。「七十七陌」と言えば、帳簿に百と書き、手では七十七枚しか払わないという意味だ。積み上げれば官の一貫は七百七十文にしかならない——これが「千文の銭を七百七十文と数える」の来歴である。四捨五入の近似でも、店先での値引き交渉の結果でもなく、公認された換算率である。官府の徴税や庫務の出納は官陌、街の売買は街陌による。換算率そのものが公開されていた、という点が重要だ。
『宋史』巻一八〇は、この銭陌の来歴を、段階的に切り下げられていく数字の歴史として書く。唐の天祐年間、戦乱で困窮し「八十五銭を以て百と為す」。後唐の天成中に五銭を減らし、漢の乾祐初めにさらに三銭を減らした。宋の初め、官に納める分はなお八十あるいは八十五を百としたが、「諸州の私用は各々その俗に随い、四十八銭を以て百と為す者さえあった」。そこで詔が出て「在るところ七十七銭を以て百と為す」。七十七という数は市場が自然に生んだ相場ではなく、詔勅が定めた官価である。同じ巻の福建の鉄銭の条には「銭千ごとに銅銭七百七十と等し」とあり、鉄銭千枚は銅銭七百七十枚に当たる。同じ比率を、金属を替えてそのまま使っている。
二、ひとつの街路に六つの算法
「都市銭陌」の条は六つの数字を並べるだけで、説明を一句も加えない。確かなのは、それが六種の取引に対応し、いずれも「一貫が何文に当たるか」という同じ分母の上で語られていることだ。換算は次のとおりで、括弧内は各陌で数えた一貫の実数である。
- 官用七十七:官府の収支と庫務の出納。一貫は七百七十文。
- 街市通用七十五:日々の小売りの通用数。一貫は七百五十文。
- 魚肉菜七十二陌:生鮮と副食。一貫は七百二十文。
- 金銀七十四:金銀と装身具の売買。一貫は七百四十文。
- 珠珍・女中を雇う・虫蟻を買う六十八:珠玉、女中の雇用、虫の売買。一貫は六百八十文。
- 文字五十六陌:文書、代筆の類。一貫は五百六十文。
この並び自体が情報を持っている。官府の正項に近いほど陌は長く、細かい、奉仕や人身に近いものほど陌は短い。女中を一人雇うのと虫を一山買うのが同じ段に並ぶのは、今読むと目を引くが、原文には併記があるだけで説明はない——そのまま写すしかない。あの帳簿のなかでは、一人の女の労働と一山の虫が同じ種類の売買だったのである。「文字」がなぜ最短なのかは、刀筆・書手といった細かい請負と関係があると推測されるが、これは推測であって、宋代は説明を残していない。
三、二組の帳簿:官のものと街のもの
短陌が偽造と読まれやすいのは、同じ銭が二つの系統で同時に数えられるからだ。官の側では陌は税の規則である。七十七枚を納めて百文の帳簿をつけてもらい、差額は国庫に入る——税率に書かれていない上乗せだ。街の側では陌は表示の単位である。店が「二十文」と言うとき、それは帳簿上の二十文で、実収はその商売の陌で換算される。買い手も売り手もその規則を知っているから、争いにならない。本当に問題が起きるのは境界をまたぐときだ——街陌で官の税を納める、あるいは官陌で街の野菜を買う。
だからこの条は、銭制の専門論ではなく、巻三の街巷の項目に、医舗や寺東門の街巷、般載雑売と並べて置かれている。貨幣理論ではなく、都市生活の常識の一つなのである。同じ巻の「般載雑売」には酒の樽が「一梢およそ三斗、一貫五百文」とあり、「貫」が使われている。原文はその千五百文が樽代なのか酒代なのか運賃なのかも、どの陌で決済したのかも書かない。値段が一つに空白が二つ——それは当の人にとって換算が暗黙の前提で、書くまでもなかったことの証拠である。
四、時代が下るほど、縄は緩む
南宋の臨安で、この曲線は行き着くところまで行く。『夢粱録』巻十三「都市銭会」に「元来、都市の銭陌は七十七陌を用いたが、近来、民間は五十陌に減らして行市に通用させている」とある。官定の七十七は紙の上に残ったまま、民間はすでに五十で数えている。同じ条は続けて、金銀関子を発行してから「諸行百市、物貨は湧き貴く、銭陌は消折せり」と記す——物価の上昇と陌の縮小が、一つの出来事として書かれている。同条はまた、杭城では「銭法通ぜず」のゆえに「鑞牌」を造り増して通用させたとも言う。銅銭が足りず、錫と鉛の札を小銭の代わりに使ったのである。
北宋の七十七から南宋末の五十へ、変わったのは銅銭の重さではなく、「百文」という一言のなかみである。その間に切り下げを告げる詔書はなく、相場が少しずつ下へずれただけだった。一貫が五百文しかないと気づいたときには、もう遅い。
五、帳簿にないもの
確証できるのは換算率、詔令のおおよその年代、いくつかの値段である。確証できないことは明記しておく。魚肉菜が金銀より短い理由、文字が最短である理由、女中の雇用と虫の売買が同じ段である理由を、宋人は説明していない。銭の束を運ぶあいだの損耗や釣り銭の習慣、商売ごとの交渉力についての後世の説も、すべて推測にすぎない。一貫七百七十文で米がどれだけ買えたか、職人が一日に何陌稼いだか——この二書には体系的な物価と賃金の記録がなく、現代の購買力に換算する算法はどれも当てにならない。本稿では行わない。
残るのはごく素朴な事実である。銭の価値は銅の重さだけにあるのではなく、一文をどう数えるかにもある。開封の人が「一陌」と言うとき、それは百枚ではなく、百文の帳簿を指していた。その帳簿の後ろに隠れた二十三枚の差を誰が負うのか——それは六行の数字の並び順に書かれている。
参考資料・関連文献
- 孟元老《东京梦华录》卷三「都市钱陌」(Meng Yuanlao, Dongjing Meng Hua Lu, juan 3, “Urban Money-Strings”) — The six conversion rates in one line, ending with the admission that each trade used its own; the same juan supplies the price data and the wine-cask price.
- 吴自牧《梦粱录》卷十三「都市钱会」(Wu Zimu, Meng Liang Lu, juan 13, “Urban Coins and Paper”) — The Southern Song drift from seventy-seven to fifty per hundred, the tin-lead tokens, the paper notes, and the link between note issue and the shrinking string.
- 脱脱等《宋史》卷一百八十《食货志下二·钱币》(Tuotuo et al., Song Shi, juan 180, “Treatise on Finance II: Coinage”) — The fiscal history of the rate: 85 to the hundred under the Tang, cut to 80, then 77, the Song edict fixing 77, and the iron-coin equivalence of a thousand to 770.




