1466年の六月、東と西の公生門から大明門に至る溝が浚われた——各215丈。東安門から南の城壁の角に至る溝は225丈。これがほぼすべての細部である。長さはあっても、幅も、深さも、断面も、浚った者が何を見つけたかという記述もない。数は小さく、文言は素っ気ない。残るのは四行で、清の編纂物が『明実録』から引いたものである。

測られた二本の溝

門のほうが溝より三十年古い。東と西の長安門は、五府と六部の街に開いていた。都の市井の人びとはこの門を「孔聖門」と呼んだが、それは俗称の訛りで、本当の名は公生門である。1436年の六月、朝廷は「長安左右門の外の南に公生門を作る」と命じた。門が先にあり、そこから流れる溝は三十年後に来た。

記録の言葉は「各」である。「東西の公生門より大明門に至る溝、各215丈」。東と西に別々の215丈の溝があるという意味かもしれず、一つの合計かもしれない。訳はその語をそのまま残し、数を足し合わせない。道筋もない。項目が与えるのは両端の門の名だけで、地図ではない。本稿は地図を描かない。

水はどこから来たか

この溝を満たした水は、都のずっと外から来た。明代の北京についての清初の記述によれば、濠の源は昌平州の白浮村の神仙泉である。楡河に通じ、一畝・馬眼の諸泉と合して七里濼をなし、東に流れて都を巡り、玉河の名を得る。大通橋から通州の高麗庄に下り、白河に入って盧溝河と合する。長さは160余里とされる。水路は元の郭守敬が掘ったもので、通恵河と賜名され、明はそれを用いた。「玉河」は都を巡る区間の名であって、漕河全体の名ではない。

もう一支は別に記される。西山の玉泉が水関から入り、越橋(俗名・銀錠橋)を経て西苑に入り、宮禁を巡り、玉河橋から出て城河に入り、大通橋で漕河に合する。玉河橋は三つある、と記述は言う。一つは長安東街に架かり、一つは文徳坊街に架かり、一つは城垣の近くにある。

橋、閘、濠

1439年、朝廷は城濠を深くし、四涯をことごとく磚と石で覆った。九門の旧い木橋はすべて撤去され、石橋に替えられた。「二橋の間にはそれぞれ水閘を置く」。濠の水は城の北西隅から城を巡って東へ、「九橋九閘を歴て」、城の南東隅の大通橋に至って去る。九橋九閘はこの一圈の城濠についての数であって、都のすべての排水施設の総数ではない。清初の記述が描くのは、排水路の網ではなく、この環である。史料が排水システムに最も近づくのはここである。街の下の管ではなく、門を備えた水の環である。

官修『明史』が都について残すのは三条だけで、しかもいずれも補修であって、論考ではない。1439年、正陽門の外に減水河を設け、城内の溝渠を浚った。1441年、江米巷の玉河橋と堤を修め、京城西南の河を浚った。1523年、徳勝門の東と朝陽門の北の城垣河道を修めた。三条のいずれも丈尺も、夫役も、費用も与えない。三条のうち二つは橋と堤の工事、一つは減水河と溝の工事である。この巻の題は「直省水利」であり、都城の水道志ではない。系統的な記載として読むべきではない。

一度の雨、一つの論争

1440年の六月、雨が弱さを露わにした。侍講の劉球が奏した。天の雨が連綿と降り、宣武街の西の河が堤を決して漫流し、街の東の河と会合し、二つの水が氾濫して民家を浸した。堤を修めて患いを消し、城外の宣橋の西などで減水河を量りに作り、城中の諸水を泄らせよ、と。この奏議は清初の書に収められ、日付は六月である。史料が記すことの大半は、このような事後の補修であって、日常の維持管理ではない。

皇甫仲和の説は違った。宣武門の西に旧い涼水河があり、その東の城河の南岸にも旧い溝があり、どちらも疏通して水勢を泄らすことができ、「新たに作るは利あらず」という。皇帝はその言を是とした——結論は旧い溝を浚うことで、新たに開くことではなかった。その旧い溝が後に浚われたか、どこまで浚われたか、材料には下文がない。

最後の大開削

最後の大工事は排水のためではなく、漕糧のために開かれた。1639年の二月、内監の曹化淳が城外に河を開いて漕糧を通そうと議した。三月十九日から1641年の六月までに、広渠門から大通橋の運糧河の北岸まで3,862丈、東直門外の月河270丈、斗虎営から大石橋まで3,151丈を掘った。帳簿は班軍2,032,000名、募夫20,900名を与える。13,500丈が未完成で残った。兵部侍郎の呉甡は、費用がかさみ、役に立たず、地脈を傷つけるとして抗疏して止めた。

もう一本の帳簿が残る。記すのは開河ではなく、濬濠である。魏大中の〈濬濠疏〉は、人夫1,500,819名、匠1,289名、班軍は延べ工日で33,012名、水衡の銀61,628.9148両、司農の銀1,733.13両、米3,301.2石とし、東便門から始めた。疏には年がなく、瀋陽と遼陽の陥落に触れることから天啓初と推される。それは内部証拠からの推測である。1639年の開河とこの濬濠は、二十年隔たった二つの工事であり、本稿では別々に扱う。これらの帳簿のどこにも幅も、深さも、断面も現れない。淤積の深さも、病に倒れた者の数も与えられない。これらの材料が一貫して描くのは、河と濠と溝と閘と橋の都である——街路の下の管網ではなく、全体として働いた一つの体系でもない。

参考資料・関連文献

  1. 《明史》卷八十八·河渠六·直省水利 (Ming shi, juan 88, 'Waterways 6: Provincial Waterworks') — Official history, but a chapter on provincial waterworks, not a treatise on the capital's drains; Beijing appears in three entries only: 1439 a spillway outside Zhengyang Gate and dredging of the city ditches; 1441 the Jade River bridge and embankment at Jiangmi Lane plus dredging of the south-west city river; 1523 repair of the channels at Desheng Gate east and Chaoyang Gate north. No lengths, labour counts or costs.
  2. 《日下旧闻考》卷三十九·皇城一(清乾隆官修,四库全书本)(Rixia jiuwen kao, juan 39, Siku edition) — Siku edition, not collated against a critical edition. Quoting the Ming Xianzong Veritable Records: in the sixth month of 1466 the ditches from the east and west Gongsheng gates to the Great Ming gate were cleared, 215 zhang each, and the ditch from the East An gate to the corner of the south wall, 225 zhang. Also quoting the Shuyuan Zaji and the Yingzong Veritable Records on the Gongsheng gate (market name 'Kong Sheng', real name Gongsheng), first built south of the Chang'an side gates in 1436.
  3. 孙承泽《天府广记》卷四(清初人记明代北京)(Sun Chengze, Tianfu guangji, juan 4, early Qing on Ming Beijing) — Early-Qing account of Ming Beijing: the Jade River rises at the Shenxian spring in Baifu village, Changping, gathers the Yimu and Mayan springs into the Qili pool, circles the capital and runs more than 160 li to the Bai River at Gaoli village; a second branch brings the Western Hills spring through the water gate, past the Yue bridge into the Western Garden and around the palace precincts to the three Jade River bridges; in 1439 the moat was deepened and faced with brick, wooden bridges replaced in stone with a sluice between each pair, nine bridges and nine sluices around the circuit; in 1440 Liu Qiu reported flooding and Huangfu Zhonghe advised clearing old channels rather than cutting a new spillway.
  4. 孙承泽《春明梦余录》卷三(四库全书本,未与点校本复核)(Sun Chengze, Chunming mengyu lu, juan 3, Siku edition) — Siku edition: the 1639-41 canal outside the city (3,862 zhang from Guangqu Gate to the transport river at the Datong bridge, 270 zhang of moon channel outside Dongzhi Gate, 3,151 zhang from Douhu camp to the great stone bridge; 2,032,000 soldier-labourers and 20,900 hired men; 13,500 zhang unfinished; Wu Shen's memorial against it), and Wei Dazhong's dredging memorial (1,500,819 labourers, 1,289 craftsmen, 33,012 soldier-labourers by days, 61,628.9148 taels from the water office, 1,733.13 taels from the grain office, 3,301.2 shi of rice); the memorial is undated and is placed in the early Tianqi years only by its reference to the fall of Shenyang and Liaoyang.