都の閶闔門の外、大通りの上に一軒の食肆があり、人は「張手美家」と呼んだ。ふだんは「水産陸販、需に随いて供す」——魚も肉も客の求めに応じて出す。だが節句になると「節ごとに則ち専ら一物を売る」——「京を遍く輻湊す」、都じゅうの人がそこへ集まり、あだ名までついた。「澆店」である。陶谷は『清異録』にこの品書きを書き写した。元日の元陽臠、上元の油畫明珠、人日の六一菜、二月十五日の涅槃兜、上巳の手裏行厨、寒食の冬凌粥、四月八日の指天餕餡、重午の如意円、伏日の緑荷包子、二社の辣鶏臠、七夕の摩睺羅飯、中元の盂蘭餅餤、中秋の玩月羹、重九の米錦、冬至の宜盤、臘日の萱草麺、臘八の法王料斗。十七の節令、一節一物。

一、暦で並べた献立

この一覧で最も見るべきはその並べ方だ。料理の系統でも、貴賤でもなく、日付で並んでいる。原文は名だけを与え、個別に短い注を添える——油畫明珠には「上元の油飯」、米錦には「重九の糕」と注す。涅槃兜・摩睺羅飯・宜盤の類は名だけしかなく、字義もすべて明らかではない。だから本稿は名目と原書のその一句の説明だけを写し、料理法に復元しない。配料も作り方も味も、材料になければ作らない。また「澆店」という号についても、原書は説明していない。「京を遍く輻湊す」の四字は少なくとも、これが都の有名店であって、街角の屋台ではないことを示している。

二、冬至から元日へ

この一覧の後半はちょうど冬に当たる。冬至の宜盤、臘日の萱草麺、臘八の法王料斗、元日の元陽臠——四つの日が近く、連続する消費の季節である。同じ書の「回湯武庫」の条は、この季節の家庭の仕事をより具体的に書く。「季冬既に大寒、食物を停むべし。家ごとに方〻羊・豕・牛・鹿・兔・鴿・魚・鵞百珍の衆を鳩集し、期するに十日を以てして辦造し、正旦の日に至りて方に成る。品目の多き者を以て上と為し、制して湯餅とし、盛筵にて之を薦む。名づけて『回湯武庫』と曰う。大概秦・隴に盛行す。」——寒さで物が保つので、十日かけて材料を集め、元日の朝に仕上げる。競うのは品目の多さだ。食肆は「一つ」を売り、家は「百珍」を作る。二つの節句の過ごし方が同じ書に並んでいる。

三、糧の値が金玉だった年

同じ巻にもう一条あり、節句の商売を現実に引き戻す。「唐末、天、奇禍を降し、兵革海内に遍し時、飢倹多し……粒食の価は金璧を逾ゆ。通衢に飯肆あり偶ま開く。諸の門に榜して曰く、『剥皮丹を貨る、一服に只だ三千を売る。』服とは、碗を以て言うなり。」——一杯の飯が三千文、名づけも辛辣である。二つのことを明記せねばならない。これは唐末の飢饉の極端な記録であり、秦宗権が蔡州を拠ったころのもの、五代の常態ではない。ここでの役割は価格の桁を与えることで、猟奇ではない。だから本稿は原文を引くだけにし、細部を渲染せず、場面の絵も与えない。張手美家の節句の品書きと並べれば、片方は都の名店が日を選んで商いをし、片方は兵乱の年月に一杯の飯が金玉に匹敵した、ということになる。

四、もう一つの戸棚——火寸と黒太陽

『清異録』は食べ物だけを記すのではない。器具門のいくつかが「暮らし」の残り半分を補う。「火寸」:「夜中急あり、灯を作るの緩きを苦む。智者あり、杉条を批き、硫黄を染め、之を置きて用を待つ。一たび火と遇えば、燄穂の然うるを得。既に之を神とし、呼びて『引光奴』と為す。今遂に貨する者あり、名を易えて『火寸』と為す。」——杉の細片に硫黄を染み込ませ、火に触れれば燃え立つ。もとは急場の巧みな道具だったが、のちに売る者も現れ、名も変わった。もう一つの小さな商品である。「黒太陽」:上等の炭を搗いて末にし、米粥で練り、円い鉄の型に入れ、「鉄面を運らし鎚を以て実撃すること五七十下」、型から出して陰干しする。「盛寒、炉中に十数枚を熾せば、烘燃一夜を徹す」——一晩中燃える炭団で、作り方まで書いてある。「五位瓶」:「同光より開運に至るまで盛行す。銀銅を以て之を為り、高さ三尺、囲み八九寸、上下直にして筒の様のごとし……春日の郊行、家ごとに之を用う。」「黒金社」もある。廬山白鹿洞の遊士は「冬寒のごとに、金を醵めて烏薪を市り、禦冬の備えと為す」、十月一日に「氊炉会」を設ける。「方便囊」:「唐季の王侯、競うて方便囊を作る。重錦を以て之を為る。」出かけるとき衣巾・篦鑑・香薬・詞冊を入れる袋である。

五、この本を何に使えるか

まず本の性格から。陶谷は宋初の人だが、「宋に入ると雖も、実に五代の旧人なり」。この書は「皆な唐及び五代の新潁の語を採摭し、門に分かち題を標し、事実の縁起を下に注す」——条目の多くは逸聞・名物・滑稽な話である。使うときは「陶谷の記載によれば」と書き、五代のフィールド調査としてはならない。門の数にも二説ある。四庫提要は三十七門と言い、維基文庫本は実際に三十五門を挙げる。だから本稿は「三十余門」とだけ書く。第二に、材料の偏りは明らかだ。張手美家は都の名店、韋巨源の焼尾食帳は宰相の家の席、孫承祐は呉越の外戚——これらを平民の日常としてはならない。普通人を書くには「こうした節令の食俗が都の市場で売られていた」と言い、推測と標すしかない。第三に、時代を混ぜない。韋巨源の焼尾食帳は唐中宗景龍年間のこと、謝諷の『食経』は北斉のもので、いずれも五代ではない。本稿はこれを五代の品書きに算入しない。第四に、「閶闔門」がどの城の門か、原文は「閶闔門の外」「京を遍く輻湊す」としか言わず、名を挙げていない。洛陽にも汴京にもこの名の門があるので、本稿は「都の閶闔門の外」とだけ書く。

確かなことと確かでないことは、ここまでで明らかである。確かなのは、五代の都の食肆が節令で商いをし、一つの節句に一つを主役にして、都じゅうの人が買いに来たこと。冬至から元日は連続する消費の季節で、家では十日をかけて「回湯武庫」を備えたこと。唐末の飢饉に一杯の飯が三千文で売られたこと。器具門の火寸・黒太陽炭餅・五位瓶・方便囊が、都市生活の細かく具体的な小物を一群なし、すでに売買されていたものもあること。確かでないのは、これらの料理の配料と作り方、食肆の値段、普通の家が実際に何を食べたか、「張手美家」の商売がどれほどであったか——原文にはない。残る問いは素朴である。この十七の日のうち、普通の家が買えたのはいくつだったか。書には答えがない。「京を遍く輻湊す」の四字だけが、見物に集まる者が多かったことを示している。

参考資料・関連文献

  1. 陶谷《清异录》(维基文库本,附四库提要) — 宋初陶谷撰,「虽入宋,实五代旧人」,书「皆采摭唐及五代新颖之语,分门标题,各为标题而注事实缘起于下」;四库提要称三十七门,维基文库本实列三十五门,故正文写「三十余门」;馔羞门、器具门为本文主要依据
  2. 陶谷《清异录·馔羞门》(维基文库) — 张手美家「阊阖门外,通衢有食肆……每节则专卖一物,遍京辐凑,号曰浇店」,列元日阳脔至上元、寒食、七夕、中秋、重九、冬至、腊日、腊八十七目;回汤武库;剥皮丹「每服只卖三千」;韦巨源烧尾食账(唐)、谢讽食经(北齐)
  3. 陶谷《清异录·器具门》(维基文库) — 火寸(杉条染硫黄,初名引光奴,「今遂有货者」);五位瓶(同光至开运盛行,银铜为之,高三尺,春日郊行家家用之);黑太阳炭饼制法;黑金社与氊炉会;方便囊